8分の1ファイナル

1/8final。勝ち抜き戦でベスト16による8試合を示す。エイトファイナルに同じ。

ハッキング hacking

反則の1つ。相手をたたくこと、打つこと。

敗者復活戦

勝ち抜き戦で1回敗れたチームに、もう1回、試合のチャンスを与える方法。

敗者慰安試合

敗れたチームだけを集めて別の組み合わせを編成する試合(=コンソレーションマッチ)。予選を突破できなかったチームで順位決定を争う場合をコンソレーションラウンドと呼ぶ場合もある。

廃(休)会・廃(休)部・廃(休)刊の記録

【廃・休会した主な全国大会(戦前を除く)】
旧制高校選手権全日本総合室内選手権東西(全日本)学生王座決定戦全自衛隊選手権 ・国体教職員の部 ・国体高校の部 ・全日本教職員選手権 ・全日本実業団選手権(=全日本社会人選手権と改称)・各種別東西対抗。(注・国体一般の部は改称して存続)
【廃・休部した男子日本リーグ1部チーム】
・ホンダ(Honda)・ホンダ熊本・三菱レイヨン大竹 ・日新製鋼 ・三陽商会
【廃・休部した主な女子実業団チーム】
・愛知紡績 ・ブラザー工業 ・大和銀行 ・揖斐川電工 ・日立栃木 ・ジャスコ ・三菱鉛筆 ・日本ビクター ・扇屋 ・大崎電気工業 ・レナウン(東京、大阪) ・大洋デパート ・田村紡績 ・大洋紡績 ・東京重機工業 ・ムネカタ ・和歌山県商工信用組合
【廃・休刊したハンドボール商業誌】
・「ハンドボーラー」83年1月〜84年8月(大阪、スポーツグラフィック社)
・「ハンドボールマガジン」84年5月〜85年4月(東京、ベースボールマガジン社)

ハーフバック(ス)

11人制でフォワードとフルバックの中間をつとめるポジションで、通常3人が当たった。中衛と訳された。7人制でも同様のポジション1人をハーフバックと呼んだ時期がある。現在はほとんど使われないポジションであり用語。

ハーフコート

センターラインで区切られたどちらかの半分のコート。

ハーフタイム

競技の前半と後半の間の休憩時間を指し10分間が標準。大会によって15分間となる。この間に両チームが選手席を入れ替える。選手はこの時間更衣室に戻ってもよい。

ハーフタイムショー

主催者が観客のためにハーフタイムの時間を利用して行なう催し。ハーフタイムプログラムともいう。

ホール hall

室内ハンドボール会場。観客席1500程度のボールホール(球技場)と呼ばれる施設がヨーロッパには多い。

浜田 浩和(はまだ・ひろかず)

03年12月の第16回世界女子選手権(クロアチア)で日本人初のレフェリーに指名された。94年2月国際ハンドボール連盟の国際A級ライセンスを取得。62年生まれ。パートナーは小笠原久郎

花畑 平男(故人)

57年プラハ(チェコスロバキア、当時)で開かれた国際ハンドボール連盟第6回国際審判員コース(講習会)に参加。コース終了後の審査に合格して日本人初の国際審判員資格を取得した人。97年他界。

反則

競技規則に違反したプレー、行動。違法、不法。ファール(foul)。

ハンドボール〜その歩み@〜

【起源】古代エジプトの壁画にみられる“手球戯”や「ウラニア・ゲームズ」での球技など諸説があるが、決定的な論拠を持つものはない、とされる。各時代、多くの民族がそれぞれに“ボールゲーム”を行なっていたのは明らかで、それらをすべて現代ハンドボールの起源とすることもできよう。ヨーロッパのハンドボール研究家たちが、ハンドボールを「ボールゲームの帝王」と呼ぶのはこのあたりにある。“手球戯”はフットボールより早く人類に親しまれている。

【原型】定説としてはローマ時代の「ハルパストン(あるいはハルパストウム)」が有力とされる。

【現代への発祥】18世紀エスキモーがグリーンランドで親しんできたボールゲーム、19世紀後半デンマークでの16人による「ハンドボルト」、20世紀に入って、スウェーデンで紹介された「ハンドボル」、チェコスロバキアの「ハゼナ」、ドイツにおける「ラフ・バル」「トーアバル」などがある。国際ハンドボール連盟は、「世界で最初のハンドボール試合は1896年夏、デンマークのフェーン島東端の町ニュボーで行なわれた」と初めて見解を1990年に明らかにした。同国で「ハンドボルト」の名のスポーツはそれ以前に学校体育として盛んに行なわれていたともいう。1906年「ハンドボール競技規則」が制定、刊行された。最古のルールブックと言われる。
学校体育としてのきっかけは、サッカーに興じる生徒たちのシュートやパスがしばしば校舎の窓ガラスを破り、手で行なえばその損害が少なくなるだろうと考案されたとの説がある。

【ドイツでの発達】前述の「ラフ・バル」と呼ばれるラグビーフットボールに似たボールゲームが19世紀末から20世紀初めに行なわれ、1915年ベルリンの女性団体がこのスポーツを女性向きにアレンジして「トーア・バル」を考案した。1919年ベルリンで体育教師カール・シュレンツが、その自然性と体(教)育性に着目、ルールなどを練り上げ、1920年ドイツ体操連盟(DT)によってルールブックが発行され、翌年、第1回全ドイツ選手権(男女)が行なわれた。同じ時期、ドイツスポーツ協会(DSB)が、その競技性に期待をかけDSBに影響力を持つドイツ陸上競技連盟が発展へ力を貸した。DSBも全ドイツ選手権を始めたため、30年までは2つの国内選手権が開かれ、31年“統一”された。

【国際的な発展】ドイツ陸上競技連盟の働きかけによって28年アムステルダム(オランダ)での28年国際陸上競技連盟総会で「国際アマチュア・ハンドボール連盟(略称、略記はIAHF)」があっという間に設立された。日本は日本陸上競技連盟の名で加盟したが、独立した日本ハンドボール協会の発足は10年後となる(参照は「日本のハンドボール」)。1921年10月アルゼンチンで協会が設立されている。国際アマチュア・ハンドボール連盟は1938年に男子11人制と同7人制(室内)の世界選手権をいずれもドイツで開いている。国際サッカー連盟が1912年ハンドボールの存在を紹介しているのは興味深い。

ハンドボール〜その歩みA〜

【IHFの誕生】第2次世界大戦の終幕でドイツ主導の国際ハンドボール界の状況は大きく変わり、ベルリンに本部(事務所)を置いていたIAHFは自然消滅してしまう。代わって46年7月、コペンハーゲン(デンマーク)にデンマーク、スウェーデンの呼びかけで8ヵ国が集まり新たな世界組織・国際ハンドボール連盟(略称、略記はIHF)の結成を決めた。正式誕生日は46年7月11日。

【グローバルスポーツへ】北欧を中心とした新しい動きは精力的で46年末には12ヵ国、48年には5ヵ国、50年に2ヵ国が加盟、52年20番目のメンバーとして、日本がヨーロッパ大陸以外から最初の加盟国となった。アメリカ大陸からは54年にブラジル、アルゼンチン、アフリカ大陸からは60年にエジプト、モロッコが加盟、日本につづくアジア大陸からの加盟は60年韓国、62年シリア、66年ヨルダン。創立10年目には4大陸39ヵ国となった。

【オリンピック】国際ハンドボール連盟の宿願はオリンピックへの“復活”だった。55年9月、国際オリンピック委員会に「60年のローマオリンピックに採用を」との申し出を行なった。その3年前、ヘルシンキ・オリンピックの開会式後のデモンストレーションとしてスウェーデン−デンマーク(男子11人制)の試合が行なわれ、関係者は意を強くしていた。しかし、規模拡大を懸念する国際オリンピック委員会の同意がなかなか得られず、悲願の達成は72年ミュンヘン・オリンピックまでずれ込む。

【11人制衰退・7人制主流】第2次大戦後最大の変革は7人制(室内)主流の動きだった。背景には諸説があるが、春〜秋の短い北欧主導の運営を一因とみていい。戦前から活動していた国は11人制・7人制併行、段階的に7人制へ移行したが、新勢力ともいうべき東欧圏は7人制への興味が圧倒的に強くこのパワーも影響している。11人制世界選手権は男子が66年第7回で、女子は49、56、60年の3回で終止符が打たれ、70年代を前に「7人制時代」が確立された。日本を除いては、7人制といえば「室内」を指すのが常識となり、62年ルーマニアでの第2回世界女子選手権がアウトドア(陸上競技場特設コート)で行なわれたのは“異例”といえる。日本は57年に女子が7人制一本化、63年には全面採用となり、25年にわたる11人制の幕が閉じられた。

【現況】ミュンヘン・オリンピックでの実施は、ハンドボールへの関心を世界的にふくらませ、76年モントリオール・オリンピックから女子が採用されたことでいっそうはずみがついた。74年オーストラリアの加盟で5大陸が揃い、国際ハンドボール連盟設立30年目の76年には5大陸66ヵ国、86年には同97ヵ国、96年には東欧圏で独立が相次いだこともあり同139ヵ国、現在(2014年1月)は同199の国と地域がメンバーとなった。非公式だが未加盟の地域と国は10を越す。09年6月現在、世界の愛好者登録人口は約1900万人、チーム(クラブ)数は795000。

【世界選手権の拡充】国際的な発展は、活動の充実を誘うこととなり、77年世界ジュニア選手権(男女)が2年ごとに開催され、90年代に入るとシニアの開催サイクルが伝統の4年から2年へと改訂された。70年代以降各スポーツがサキを争うようにコマーシャリズムの導入によるマーケティングを強めた。世界選手権は財政上でもキーとなるイベントだ。なかでもテレビ放送権料、スポンサー料は、この大会の運営はもとより国際ハンドボール連盟の事業を支えている。競技者サイドでもプロ選手の登場、強豪クラブやトップリーグのビジネス路線、賞金大会などが進み、03年から世界選手権も賞金が付いた。新しい世界選手権としては01年からビーチ、05年からユースが行なわれている。世界クラブ選手権も待望されている。

ハンドボール〜呼称〜

「HANDBALL」は“つづり”こそ同じでもドイツでは「ハンバル」など国によって発音が異なる。民族スポーツとしての名称を引き継ぐチェコやスロバキアの「ハゼナ」(hazanaあるいはhadzena)、手でボールを操るの意味での中国や台湾の「手球」、スペイン語の「バロンマーノ」、などがある。日本では英語(外来語)禁止時代「送球」と呼ばれた。アメリカでは「チーム・ハンドボール」、カナダやオーストラリアでは「オリンピック・ハンドボール」とされる。これらの国には壁に小さなボールを掌で打ち合うスポーツ「ウォールハンドボール」があるからだ。主な呼称とスペル(spell)はHandball、Hadzana、Handebol、Handbol、Haandbold、handbolt、Hentbol、Gandbol、Andebol、Balon a mano、Kezilabda、Rucni−Mjac、Rukomet、Rankino、Kasipall Olitto、Pilka−Reczney、Pallamano、Rucnaja topka。

ハンドボール切手 postage stamp

オリンピック、世界選手権や国内主要大会などで、開催国の郵政当局が発行するハンドボールを図案とした切手。スポーツ切手の一種。開催国以外の国で発行されるのも珍しくない。49年ハンガリーでの第1回世界女子11人制選手権が最初といわれ、72年ミュンヘン・オリンピック以降は世界で数多くのハンドボール切手が出ている。日本では64年の新潟、85年の鳥取、94年の愛知各国体でハンドボールのデザインが採用されたほか、97年の熊本世界選手権では「ふるさと切手シリーズ」の1つに組みこまれた。世界の総数はまとめられていないが、フランスの収集家は20世紀だけで200種類は下るまいとしている。

ハンドボール記者会

新聞社、通信社、雑誌社、放送会社、カメラマンなど主にハンドボールの取材を専門とするジャーナリストの集まり。日本では東京運動記者クラブのほか、北海道、中部、関西、広島、九州など15地域の記者クラブにほぼすべて「ハンドボール分科会」が置かれている。国際的には国際スポーツ記者会(略称A.I.P.S)にハンドボール委員会がある。

『ハンドボール研究』(研究誌)

日本ハンドボール協会が1999年から刊行している研究誌(年刊)。学校体育におけるハンドボールの指導やコーチ法についての研究論文が中心。

ハンドボール振興議員連盟

国会議員のなかでハンドボール愛好経験や中央・地方組織の役員経験を持つ人が09年5月超党派で旗上げした。
当面ロンドン・オリンピック出場のための資金の支援や、ハンドボールの普及活動を手がける。発足時のメンバー(名簿)は約40人。

Handball Woche ハンバルヴォッヘ(ドイツ語)

ドイツで発行されている世界で唯一のハンドボール週刊誌。55年1月第1週の創刊。ヨーロッパのキオスクで販売されているのはこの雑誌とフランスの月刊誌ぐらいだ。

ハンドリング

ボールの手さばき。その巧拙。

ハードコート

屋内外を問わず硬質の素材で作られているコート。セメントのフロアに薄いマットなどを敷いた施設もある。

ハルパストム、パルパストン harpaston

ローマ時代の球技。牛の膀胱に鳥の羽毛などを詰めて球状の用具を作り、2つのチームが、それを相手の陣地へ持ちこんで得点を争ったとされ、ハンドボールの有力な起源の1つにあげられる。

ハンドシグナル

ゼスチュアに同じ。

橋本 行弘(はしもと・ゆきひろ)

熊本世界選手権(97年)で内外の専門家、ジャーナリストなどに最も評価の高かった日本人選手(GK)。84年本田技研鈴鹿(ホンダ)入り。00年ドイツリーグTVグロスバルシュタットに同僚の茅場清とともに在籍、00年第7回ヨーロッパシティカップ優勝メンバーとなる。01年帰国後第一線を退き、ホンダの監督をつとめた。65年9月愛知生まれ。

ハットトリック hattrick

サッカー、ホッケー、アイスホッケーなど得点するのが難しいスポーツで同一選手が1試合で3得点する活躍やクリケットで投手が3人連続で打者をうちとった時などの称賛の言葉として贈られる。クリケットで帽子(ハット)を贈ったことから呼ばれはじめた。
ハンドボールではクリケットとホッケーの盛んなインドで行なわれた第9回アジア大会(82年)で、3連続ゴールした選手のスコアシートにこのマークが付けられた。3連続ゴールの間に相手チームが得点しないことも条件。日本選手では生駒靖夫、蒲生晴明、山本伸二が各1回、この敬称を贈られた。ヨーロッパや日本のハンドボール界では使われない言葉。

春の全国中学生選手権

06年3月に新設された中学生世代3番目の大会。総務省の「個性豊かで活力に満ちた地域社会の実現」に則って公募されたスポーツイベントとして富山県氷見市が名乗りをあげ、実現した。2015年まで同市で開かれる。参加資格を「中学生」とし、都道府県代表によるが、クラブ、混成チームなどを認め、夏の全国中学校大会の“学校単位”の枠を外しているのが特色。07年の第2回大会2日目、能登半島地震が起き、大会地も揺れに見舞われたが大事には至らなかった。

早船愛子(はやふね・あいこ)

日本代表選手、04年から3シーズン、“世界最高”と言われるデンマーク女子リーグの3クラブで活動、07年秋からスペインリーグのポリデポルティボ・ゴヤ・アルメリア・コッペルト(現ヴィカール・ゴヤ)、10年からクラブ、LE・レオン・バロンマノを舞台とし09年に帰国。三重バイオレットアイリスでプレーしたあと、13-14シーズンをもって引退。国際レベルの選手。氷見高校(富山)―筑波大学―シャトレーゼで左腕を活かし得点源となり、第4回世界女子学生選手権への参加(00年、フランス)で本場への想いを強くしたとされる。デンマーク・GOG時代、日本の女子選手として初めてヨーロッパカップ(06年、第25回フェデレーションカップ)に出場した。80年1月富山生まれ。

HB

@ハーフバックス(half backs=前掲)の略称、略記A総合競技会の案内や索引でハンドボールを示す記号Bホストブロードキャスター(=後掲)の略称、略記。

ハゼナ Hazena

19世紀終わりごろからヨーロッパ各国で「ハンドボール」の原点とも言うべき屋外のボールゲームが行なわれているが、チェコスロバキア(当時)のプラハを中心に普及した「ハゼナ」は代表的なもの。フィールドは48m×32m、ゴールのサイズは2m×2.4m、ゴールエリアライン6m。25分ハーフでフィールドは3つのエリアに分かれ、ディフェンス地域、中盤地域、攻撃地域でそれぞれ専門の選手がプレーした。例えばディフェンダーは攻撃地域に入れない。チェコは現在でもハンドボールをハゼナと呼ぶ。

ヘッドコーチ

実戦の指揮をまかされたコーチ。チームの指導陣を代表する人、担務が分かれた複数のコーチの中心となる人、そのポジション。日本では監督とほぼ同意に用いられる。

ヘッド・スカーフ

女性愛好者・競技者はプレー中に着装が許されている。
イスラム教諸国の女子競技の普及を図る目的がある。

東アジア大会

East Asian Games。93年に東アジア地域の競技力向上と親善、オリンピックムーブメントの発揚を目的に発足した。4年ごとに開かれる国際総合競技大会。加盟国はグアム、カザフスタンなどを含み9ヵ国、オーストラリアがゲストとして参加する。ハンドボールは01年大阪の第3回大会で初採用(日本は女子2位、男子3位)されたが05年のマカオ、09年の香港では実施が見送られ13年の中国(天津)も採用は難しそうだ。開催地により10〜15競技が行なわれる。主催は92年設立の東アジア競技連盟、略称、略記はE.A.G.F。アジアでは東南アジア大会や西アジア大会も行なわれている。

東アジア選手権

92年9月、中国協会招待の形式で上海を会場に男女各6ヵ国7チームが参加して開かれたハンドボールの地域選手権。現地での大会名は「極東ハンドボール選手権」。日本は男子が優勝、女子は4位だった。大会はこのあと“休会状態”で、02年に発足した東アジアハンドボール連盟が引き継ぐのか、新大会を発足させるのか注目される。

東アジア・ハンドボール連盟

02年10月、韓国中国、日本、韓国の3協会により結成された。中東勢の独断的な行動に対抗してブレーキをかけるための“結束”だが東アジアでのハンドボール普及の遅れへの対策も大きな狙いとしている。初代会長は李萬錫(韓国)、06年に第2代会長として山下泉(日本)、09年に市原則之(日本)が第3代会長に選任された。現在は鄭亭均(韓国)。ジュニアのほか、ユースの選手権、大学(22才以下)選手権、トップクラブの対抗戦(下掲)、代表チームの選手権(復活=前掲)などを計画、08年4月、加盟国の増大を図ることを申し合わせている。略称、略記はE.A.H.F。

東アジアクラブ選手権

東アジアハンドボール連盟の主力事業。日本、韓国、中国のチャンピオンクラブによる選手権(男女)で、04年から始まった。3ヵ国持ち回りの開催で07年2巡目に入った。日本代表は日本リーグの優勝チームを原則とする。
当面、3ヵ国の代表各1クラブと開催国推薦の4クラブによる総当たり戦で進める方針だが、台湾、香港、マカオ、北朝鮮などからの希望があれば受け容れるとしている。

東アジアU−22選手権

韓国ハンドボール協会の提唱で東アジア連盟の新イベントとして13年に始められた22才以下の国際大会。男女とも大学チームの選手の参加をイメージしている。

東ドイツ

正式国名はドイツ民主共和国。49年10月7日に樹立され、90年10月3日ドイツ連邦共和国(「西ドイツ」)と「統一」された。20年からのハンドボールの伝統を継ぐドイツは第2次大戦後「東ドイツ」「西ドイツ」に分割され、東ドイツは国技としてハンドボールの普及と国際的競技力向上に力を注いだ。特に頂点強化は全国から有望な素材を主力クラブに集結させ最上級リーグ(オーバーリーガ)で鍛え、精進された逸材による代表チームを組み上げた。男子はオリンピック優勝1回、女子は世界選手権優勝3回。11人制の世界選手権では男子が1回栄冠を飾っている。最上級リーグは50年(女子51年)から91年まで42シーズンにわたって行なわれ92年からブンデスリーガに合体した。74年に男子代表、79年に女子代表が来日している。略称、略記はD.D.R(英文はGDR)。

ハイスコアハンドボールゲーム(仮称)

ヨーロッパハンドボール連盟が小学校用教材競技として考案中の新しいハンドボール。シュートの方法で得点数が異なりセット制。09年の同連盟総会(スロベニア)で発表される予定。ミニハンドボールとは異なる。

平沼 亮三(故人)

日本ハンドボール協会初代会長として38年2月協会創立から40年まで活動された功労者。政治家(貴族院議員)のかたわらスポーツ界の発展に寄与、新しいスポーツ・ハンドボールは“大もの”を迎えて発足した。第2次大戦後は日本体育協会会長、日本オリンピック委員会、横浜市長などをつとめ、55年秋、スポーツ人として初めて文化勲章を受けている。59年80才で他界。70年横浜に「平沼亮三記念体育館」が建てられ、ハンドボールでも使われる。

広島アジア大会

94年10月2日から16日までの15日間、広島市を会場にハンドボール男女など34競技337種目が行なわれ43ヵ国6828人の選手、役員が参加した。ハンドボールは国内で開かれた国際総合競技大会に初参加となったのが特筆される。5ヵ国リーグによる男子は韓国が優勝、日本は2位、4ヵ国リーグによる女子も韓国が1位、日本が2位。会場は広島市東区スポーツセンター。

広島アジア選手権

91年8月22日から9月1日まで広島市東区スポーツセンターを会場に第6回となる男子は12ヵ国が、第3回となる女子は5ヵ国の合わせて17ヵ国が揃いハンドボール界の成長を告げる大会となった。男女とも翌年のバルセロナオリンピック予選を兼ね1位韓国、2位日本。男子にオーストラリアがオープン参加した。広島は第10回女子を04年に第10回ヒロシマ国際大会として開いている。

広島アジアジュニア選手権

第10回大会として06年8月22日から31日まで広島市東区スポーツセンターで07年の世界ジュニア選手権の予選(代表2ヵ国)をかけ11ヵ国が参加。1位クウェート、2位韓国で日本は5位だった。第11回ヒロシマ国際大会を兼ねての開催。

広島県協会

48年10月設立。高校界の充実のあと有力実業団によって国内トップゾーンの主力として飛躍。91年アジア選手権(男女)を主管、94年アジア大会を運営するなど、協会の組織力は高い。

「ヒロシマ国際」

94年のアジア大会を記念して95年発足した広島県協会による国際親善トーナメント。国内の代表的なプライベートトーナメントだ。毎回、ヨーロッパやアジアから有力チームを招き、日本勢の頂点強化の一翼も担っている。04年の第9回大会は第10回アジア女子選手権、06年の第11回大会は第10回アジア男子ジュニア選手権として行なった。03年に予定された大会は「SARS(サーズ)」の感染を避けて中止されている。

「引っかけ」

愛好者・競技者たちが生み出した言葉。右利きの場合、シュートを相手GKの右肩口や右足元を狙って打つこと。「引っぱり」と呼ばれることも。対比は「流し」

ヒットラー・ユーゲントチーム Adolf Hitler Jugent Team

38年8月にドイツから来日したヒットラー・ユーゲント(青少年団)のなかにハンドボール愛好者が含まれていることから日本側との親善試合が呼びかけられ、福岡、神戸、大阪、名古屋などでデモンストレーション試合が行なわれた。東京では日本ハンドボール協会による外来チームとの初の国際試合として、直前の第2回全日本選手権優勝の日本体育会体操学校(現・日本体育大学)が対戦、19−6で勝った。

氷海 正行(ひょうかい・まさゆき)

ミュンヘン・オリンピック代表として活躍のあと高校教員の道を歩み、07年4月、全国高校体育連盟ハンドボール専門部長の要職に就任。オリンピック選手の栄光を持つ人材の選任は珍しい。日本体育大学出、50年3月東京生まれ。

檜崎 潔(ひざき・きよし)

国際公認審判員。国際ハンドボール連盟が06年から始めた若手発掘プログラム(グローバル・レフェリートレーニングプログラム)の第1期生。パートナーは池渕智一。同年の世界女子ユース選手権でデビュー、11年世界女子選手権にノミネートされた。

北海道協会

50年4月設立。それ以前にも活動が行なわれていた函館市を中心に発展、草創期は遠征の費用に苦しむなどしたが、しだいに道内各地へ普及、協会組織も確立され、ロサンゼルス・オリンピック女子アジア予選(83年)を主管するなどした。中学界、学生界の充実が目ざましい。

北海道学生リーグ

56年北海道大学、北海道学芸大学釧路の2校が東北学生連盟に合流、年1回の東北・北海道学生選手権を行ない、67年から春・秋の東北・北海道学生リーグとなった。道側は加盟校がなかなか増えなかったが、69年から同リーグとは別に年1回の北海道学生選手権(道知事杯大会)を行ない、これが転機となって、74年東北勢と分離、宿願の北海道学生リーグ発足にこぎつけた。75年秋季から女子も行なわれている。男子・函館大学が87年春から13年秋まで54シーズン連続優勝(268勝1分)という驚異的な記録を続けている。
◆1969年から2013年秋までの優勝校と回数
【男子】函館大64回、北海道大20回、北海道教育大釧路校1回。【女子】北海道教育大旭川校23回、同釧路校11回、両校合同チーム2回、北翔大19回(北海道女子大・北海道女子短大・北海道浅井学園大を含む)、北星大・北星学園大18回、札幌国際大1回、小樽商大1回。
【2013年秋の加盟校】男子1部6校、2部6校、3部6校、4部7校。女子1部6校、2部6校。

北信越学生リーグ

64年夏、富山大学、金沢大学、金沢美術工芸大学の3校によって「学連結成準備委員会」を組織、同年秋、一気にリーグ発足へと動いた。85年に女子リーグも誕生した。春秋のリーグ戦のほか、73年からカップ戦「北信越学生選手権」を開いている。
◆1964年秋から2013年秋までの優勝校と回数
【男子】金沢工業大学40回、金沢大学26回、信州大学11回、新潟大学11回、富山大学9回、金沢美術工芸大学2回、福井大学1回。【女子】仁愛女子短期大20回、富山国際大12回、金沢大10回のほか富山大9回、新潟大3回、小松短大3回、信州大1回。
【2012年秋の加盟校】男子1部5校、2部8校、女子1部5校、2部3校

補欠国

オリンピックや世界選手権の大陸別予選で代表が決まったあと、次点の国をいう。次々点までその扱いにするケースもある。大陸代表がなんらかの事情で参加を辞退(代表権の返上)した場合、繰り上げ出場となる。03年12月の第16回世界女子選手権に日本がカザフスタンに代わって急きょ出場した。補欠国側の準備が間に合わなければ、出場枠は他大陸の補欠国に回される。

放棄試合

一方のチームが規定の試合時間終了を待たず途中で競技を中止したり、前半または後半の開始に応ぜず競技場に姿を現わさなかった場合「試合を放棄した」「対戦を拒否した」とみなされる。理由を問わずアンフェアな行動だが、引き金になるのはレフェリーの判定への不満、観客の乱暴な行為や行動、施設の不備(自チームへの不利な条件)、競技進行の警備上の不安などが多い。政治的、宗教的、民族的理由や、自国政府の指令、財政難といったケースもある。
対戦記録は1−0、2−0、5−0、7−0、10−0、12−0、14−0など共通の規定はない。競技規則上の違反とは異なり、一方的な理由で放棄するため、課せられる処分は資格停止、出場停止、罰金、開催経費の負担など極めて重くなる。アジアの大会では帰途の空路事情で最終試合を放棄するケースもある。

ホールディング holding

相手をつかまえたり、抱え込んだりする反則。

ホーム・アンド・アウェイ方式 

同一の対戦カードのうち1試合をホームコート(=後掲)、1試合を相手のホームコートに乗りこんで(アウェイ)行なう方式。
試合数は「1」に限らない。

ホームコート

チームの本拠地。ホームホールともいう。ヨーロッパではクラブが所有していることが多い。

ホームチーム

本拠地で競技する地元のチーム。同一本拠地会場でのチームの対戦(ダービーと呼ばれる試合)はどちらかを「アウェイ扱い」とする。

ホームタウン・アドヴァンテージ

ホームチームのさまざまな条件の有利さ。日ごろなじんでいる会場・コート、多数のサポーターなどを指す。ビジターチームは、遠征の疲れのうえ宿舎、食事、時には風習、言語、会話などの不便さ、不利さが生じる。ホームタウンデシジョン(=後掲)と同じ意で用いられることもあるが、判定上の優位はほとんどない。

ホームタウン・デシジョン hometown decision

ホームチームに有利と思わせるような判定。そうしたケースはほとんどない。

ホンダ

01年までは本田技研(鈴鹿)。60年、同社に勤務する県内のクラブチームで活動していた愛好者が中心となって社内に同好会を結成したのが母体。71年にスウェーデン代表を迎えて親善試合を行なったあたりから国内最上位を目指す体制となった。
大同特殊鋼湧永製薬両雄時代の壁をなかなか破れず、ようやく86年に第11回日本リーグと第38回全日本総合選手権で初優勝、2冠となって国内の代表的強豪への扉をあけた。
90年代に入って、91、92年の全日本実業団選手権連覇などで、着実にチーム力をあげるとともに、国際的レベルへの展望を開き、98年にフランスの世界選手権優勝メンバー、フレデリック・ヴォルステファン・ストックランを加える超大型補強を行なった。両選手による現代最高のプレーはチーム内に留まらず国内にも大きな影響を与え、同時に「ホンダ・スズカ」は、ヨーロッパでも知名度をあげた。03年11月までに日本リーグ優勝7回、全日本総合選手権優勝3回。08〜09年シリーズを最後に日本リーグから退会。同社熊本製作所にも76年チームが発足し「ホンダ熊本」として日本リーグで活躍していたが06〜07シーズンで日本リーグを退会。

フックパス hook pass

横から頭上を通して行なうパス。腕の形がカギ(hook)に似ていることからいう。

法政大学

パイオニアを示す「戦前6大学」の1校。39年春、東京学生リーグ(現・関東学生リーグ)に仮加盟、同年秋から正式メンバーとなって現在に至っている。03年11月までに全日本学生選手権、関東学生リーグ優勝各1回。

放送(映)権料

大会または試合のテレビ・ラジオ放送をある放送網が原則として独占的に行なうために支払われる権利。契約の手順は、国際ルートの場合、年ごとに複雑となり、売り手は主催者、マーケティング会社、広告代理店など、買い手も放送機関のほか、売り手とは別のマーケティング会社、広告代理店などがからむ。日本の場合、主催者(主に日本ハンドボール協会)と放送機関の直接契約が多い。全日本総合選手権男子決勝戦は推定100万円。北京オリンピックアジア再予選(08年1月、東京)のNHKによる契約は1000万円(推定)とされる。世界選手権(トップ)は男子30〜35億円、女子15〜20億円(推定)という(2015年)。

報奨金規定

日本協会が06年4月に成文化。オリンピック、世界選手権(シニア)で上位に入賞した場合、その順位によって各選手へ一律の報奨金を授与すると決めたもの。オリンピック、世界選手権にアジア予選やIHF予選会を勝ち抜いて出場権を得た場合はチームに授与される。

ホストブロードキャスター

放送権料(=前掲)の対価として品質のよいテレビ放送向けの競技(試合)映像を制作するスタッフ。国内では放送権を得た放送機関が担当するケースが多いが、国際大会では試合数も多く独自の制作会社や専任スタッフが受けもつ。97年の熊本世界選手権は、NHKの関連制作会社によって国内外向けに全80試合が制作された。原則として制作費は主催者が負担。HBと略称、略記される。

ホストシティ、ホストカントリー

規模の大きな大会の開催地あるいは開催国。原則として立候補制。

ホストオーガナイザー host organizer

規模の大きな大会の運営すべてを担当する地元の機関。多くの場合、組織委員会(organizing committee)を設立してあたる。

ヒョーグベルグ Paul Hogberg(故人)

パウル・ヒョーグベルグ。国際ハンドボール連盟の第3代会長。36年のベルリンオリンピックにスウェーデン体操チーム(デモンストレーション)の一員として参加、同国陸上競技界でも活躍。その後、スポーツ技術史の研究家となり、50年から国際ハンドボール連盟に関与。71年から84年まで会長をつとめ、薄れゆくアマチュアリズムと新たなコマーシャリズムへの革新期を支えたほか、いわゆる「2つの中国問題」、モスクワ、ロサンゼルス両オリンピックのボイコット問題など国際政治に揺さぶられながら、沈着なリーダーシップを発揮した。98年87才で他界。

兵庫県協会

48年4月設立。戦前にも多くの活動(=後掲)が見られるなど、国内の草分け的な地域。新制高校の拡充とともに新たな展開となり、女子の高校に強力チームが生まれるなどした。関西学院大学による学生界での足跡も大きい。03年アテネ・オリンピックアジア予選を主管した。06年の兵庫国体ハンドボールで史上初のインターネットによる動画配信を行なっている。

兵庫の「戦前ハンドボール活動」

1922年に紹介された「日本のハンドボール」は、30年代後半まではほとんど活動の記録(資料)に欠けるが、35年1月、40年の東京オリンピック(結果的に返上、未開催)の招致有力と、36年ベルリン・オリンピック実施の動きに敏感な反応を示したのが、神戸市を中心とするスポーツ関係者といわれる。陸上競技関係者とバスケットボール愛好者を軸に「神戸送球倶楽部」が結成され「オリンピック参加」を目標に掲げる。
神戸にはドイツ人、ヨーロッパ系の人たちが仕事で居住しており、ハンドボールは身近だった。「神戸送球倶楽部」は37年12月神戸市内で在阪神ドイツ人チームとの親善試合を行ない、この動きをきっかけに39年7月神戸に早稲田大学を招いて兵庫県協会結成記念試合を行ない、40年2月には兵庫県体育協会主催で「兵庫県選手権」が開かれている。48年4月に発足した協会(=前掲)とは“別の歴史”としていい。さらに同年ヒットラーユーゲントとの交流、41年成徳高等女学校(現・成徳学園)が在神戸ドイツ人女子との親善試合を行ない、この試合は史上初の女子国際試合となる。神戸大丸百貨店にチーム発足の記録もある。兵庫県・神戸市の「戦前史」は、日本ハンドボール史にとっても貴重といえる。