回転シュート

ビーチ競技の攻撃の1つ。ジャンプした空間態勢で1回転し試みるシュート。成功すれば得点2が与えられるケースが多い。ピルエットシュート、スピンシュートと同意。

勝ち点

総当たり戦で、最終順位を決める第1条件(要素)として設定される。1試合ごとのスコアではなく、勝ち、引き分け、負けにポイントを付すもので、一般的には勝ち2点、引き分け1点、負け0点となる。フランスなどの国内リーグは勝ち3点、引き分け2点で、負けたチームにも「参加点」として1を与える。
かつて国際ハンドボール連盟は勝ち点が弱小国からあげたものと、強力国を倒してあげたものと同じ評価というのを“差別”するため「25パーセントルール」を設けた。このルールを支持し、内外で現在も導入している大会が少なくない。

勝ち抜き戦

あらかじめ決められた組み合わせで勝てば次の試合へ進み、最終的に勝ち残った2チームで決勝を争う試合方式。一騎打ちを繰り返し最後に残った2者間で勝負を競った騎士道のトーナメントから、日本ではこのように呼ばれることも多い。国際的にはナックアウトシステムカップ戦も同じ意味で使われる。ヨーロッパでは1ラウンドごとに抽せんし次の相手を決める方法が多い。

香川県協会

46年9月設立。第2次大戦1年後から県内の体育教員によって普及。高校界を主体に発展し、国際レベルの選手も輩出。一般クラブチームの活動も地味ながら着実だ。09年12月、四国で初となる全日本総合選手権(女子)を開催した。

隔年(毎年)実施競技

2015年から採用される国民体育大会の実施競技の方式。毎年実施競技の項参照。

鹿児島県協会

48年5月設立。高校男子が中心となって球史が刻まれ、しだいに各ジャンルに熱心なチームの発足をみた。47年の国体、10年後の全国高校総体が組織力を引き上げた。

夏季オリンピック

1896年を第1回に4年にいちど開かれる。冬季オリンピックと区別され、ハンドボールはこれまでの男子11回、女子10回はすべて夏季。2016年はリオ・デ・ジャネイロ(ブラジル)で7月25日から8月9日まで、2020年は東京に決まっている。

神奈川県協会

48年11月設立、すでにその6年前、横浜での活動が見られ、同市を本拠とする「外国人クラブ」にも在日ドイツ人を中心としたチームが活動、在京大学チームとの交流も行なわれている。県内を刺激したのは成年チーム「全神奈川」の活躍で、高校・中学界の拡充へ実った。国際試合の主管経験も多い。

韓国(大韓民国)

88年ソウル・オリンピック女子で世界を驚かせる金メダル、その勢いを92年バルセロナ・オリンピックと95年第2回世界女子選手権優勝という快挙につなげ、ヨーロッパのスポーツにとどまっていたハンドボールをグローバルな声価へ高めたのは特筆してあまりある。
芽生えは36年、日本に留学していた韓国人学生によってこのスポーツが持ち帰られ41年の「第17回朝鮮神宮体育大会」で採用(一般男子、中学女子)された時にあるとされる。現在の協会の前身となる「朝鮮送球協会」は40年に設立されている。
戦後、50年代後半に“復活”が成り、60年国際ハンドボール連盟の正式加盟国となった。その翌年、初の7人制が実施され、学生界、高校界での日本との交流を積極化、オリンピックアジア大会での実施に刺激され、トップレベル強化への体制を着々と整えた。81年名古屋を制してソウルでのオリンピック開催が決定したことで、いっそうムードが高まり84年ロサンゼルス・オリンピックでの女子銀メダルが“世界への自信”を一気に高めた。ソウル・オリンピック(88年)のほか、86、02年にアジア大会、90年に世界女子選手権を85年、10年に世界女子ジュニア選手権を主管している。
男子の姜在源、趙致考、尹京信、白元●(=吉が2つ)、女子の金賢美、林五卿、呉成玉ら20世紀を代表する世界的名選手を生んでいるのも鮮やかだ。球界全般の国際的行動力もたくましい。アジアでは男子がアジア大会5回、アジア選手権6回、女子がアジア大会5回、アジア選手権8回の優勝を飾っている。04年アテネ・オリンピックアジア女子予選で敗れながら、そのあと世界選手権で復活、本大会では銀メダルを獲得、08年の北京オリンピックでの女子も予選で国際的な混乱にあいながら最終的に出場権を手にし、銅メダルを獲得するなど勝負への執着心は鮮やかなものがある。

加盟金

所属する機関からメンバーとして義務づけられる会費。日本ハンドボール協会への加盟金は都道府県協会がチーム数100以上が116500円、同以下が66500円の2種別、そのほか全国連盟は50000円(いずれも年額、09年度)。国際ハンドボール連盟は邦貨約320000円(年額、06年度)が日本の支払う額だ。

環境委員会

日本協会が2007年度から総務部内に設けた委員会。ハンドボール事業を通じて「スポーツと環境保全」の啓発が目的。大会開催時の資源使用への認識、地球温暖化への関心喚起などに取り組んでいる。

冠(かんむり)大会

ビッグイベントにスポンサーをつけ、大会経費の大半を負担してもらう代わりにその企業名を大会名に冠せて開くこと。81年、日本体育協会のアマチュア委員会が容認した。ハンドボールでは80年代後半「東洋証券」(東京)が、積極的な姿勢を示した。現在では日本リーグのプレーオフが「ANA(全日空)カップ」として定着している。
マスコミ系では「NHK杯全日本選抜」「NBN(名古屋テレビ)杯実業団」などが行なわれていたことがあるが、スポンサー色は薄かった。

関西学生リーグ

第2次大戦終戦から3ヵ月後の45年11月天王寺中学(旧制)グランドに7校が参加して開かれた「西日本学生大会」(優勝・大阪市立医科専)を前身とする。大阪ハンドボール協会の主催でこの時期に7校もの大学チームが集まったのは、戦前〜戦中に活動が行なわれていたと思わせるが、リーグの足跡は見つからない。関西地区の旧制中学卒業生が大学へ進んで、活躍の場を拓いたものだ。46年4月、大阪脅威秋によってさらに組織され「西日本学生リーグ」が行なわれ、関西学院大学が最初の優勝校となった。実力を示したのは秋の優勝校・大阪歯科医科大学で、その直後に行なわれた第1回国民体育大会学生東西対抗の部(兵庫県西宮)で東の代表・早稲田大学を下した。48年、待望の関西学生ハンドボール連盟が13大学によって設立された。
その後の発展は順調で6シーズン目に2部制を布いた。11人制時代は関西学院大学が抜群の強さで、60年代に入って同志社大学が強みを発揮、70年代以降は大阪体育大学が全盛期を築いた。2013年春季で関西大学が1969年春季以来44年(88シーズンぶり)に優勝、話題となった。女子は68年の対抗戦、69年夏の結成大会を経て69年秋からリーグ戦へと発展した。
◆1948年から2013年秋までの優勝校と回数
【男子】大阪体育大70回、関西学院大25回、同志社大18回、大阪経済大8回、関西大6回、京都産業大2回、桃山学院大2回、大阪歯科大(大阪歯科医専)2回、京都大1回。【女子】武庫川女子大44回、大阪体育大26回、大阪教育大12回、甲子園大(甲子園女子短期大)8回となっている。
【2013年秋季の加盟校】男子1部8校、2部7校、3部7校、4部7校、5部7校、6部11校。女子1部8校、2部7校、3部7校。
(注)男子優勝校には下記の「西日本学生リーグ」(1945年秋〜1947年秋=5回)は含まれていない。大阪医科歯科2回、大阪市立医科専2回、関学大1回。

関西学院大学(兵庫)

46年創立の国内を代表する名門。関西学生リーグの盟主として圧倒的な強さを誇り、戦後の最高峰イベント「東西学生王座決定戦」に48年の第1回から13回連続出場、49〜54年の6連覇を含み8回の優勝を飾っている。69年秋26回目のリーグ優勝のあと精彩を欠き下部に低迷したが、07年春の1部4位をきっかけに最上位復活を期している。39年、バスケットボール部が在神戸ドイツ人選抜とハンドボールを行なった記録がある。

関西ハンドボール協会

神戸、大阪両市の愛好者によって42年秋結成。球界の“西の本拠”として活気ある事業を展開したが、戦火が激しくなり休止状態、戦後、いち早く復活、学生リーグを起ち上げ、近畿圏の発展に力となった。現在、この名称の組織はない。

関西選手権・西日本選手権

第2次大戦前、関西(西日本)地域で行なわれた唯一の公式ブロック大会。41年、42年の2回開かれている。戦後は48年に「西日本大会(西日本選手権)」として復活。同大会は57〜60年の中断をはさんで70年まで続いた。

観衆

観戦に集った人たち。以前は概数が多かったが、近年、内外のトップゾーンは実数の発表を行なうようになっている。
主な1試合の最高記録は−
 世界・36615人=2011年5月21日、デンマークリーグ・プレーオフ決勝2回戦AGコペンハーゲン−シルケボー=コペンハーゲン「パルケンスタジオン」(サッカー場)
 国内・11300人=97年5月24日、第15回世界選手権予選リーグ第4戦、日本−アルジェリア、熊本市パークドーム。
 
 オリンピック・33910人=96年8月4日、アトランタオリンピック男子決勝クロアチア−スウェーデン、アトランタ・ジョージアドーム。
 女子・19476人=2013年12月22日、第21回世界女子選手権決勝セルビア−ブラジル、セルビア・ベオグラード「コムバンク・アリーナ」。
 外国リーグ(屋内)・19403人=2007年3月16日、ドイツリーグ、グンマースバッハ−キール、ケルンアリーナ。
 日本リーグ(レギュラーシーズン)・約3500人=76年9月4日、日新製鋼−大阪イーグルス、湧永薬品−本田技研、広島県呉市体育館(2試合)。
 
 世界11人制・約8万8000人=36年8月14日、ベルリンオリンピック決勝ドイツ−オーストリア、ベルリンナショナルスタジアム。(約10万人という資料もある)
 国内11人制・約3万7000人=56年9月18日、国際親善試合西ドイツ代表−全東海、名古屋市瑞穂競技場。

 ビーチ競技・10304人=2013年8月4日、第9回ワールドゲームズ最終日(男女決勝ほか)、コロンビア・カリ「カニャベラルホ闘牛場」。

監督

チームの実戦責任者。選手に助言し、指導する人(コーチ)。「国体」では、監督は公認指導者の資格を有することが望ましいとしている。
ヨーロッパの代表チームとトップチームの監督やコーチはプロ契約者が多い。

関東学生リーグ

第2次大戦前、38年春に始まった「東京大学学生リーグ」の歴史を引き継いで46年1月、関東学生ハンドボール連盟の名称で“復活”が決定、同年6月春季リーグを行なった。46年秋、「戦前6大学」以来久々の加盟校として中央大学が参加。51年春から2部制が定着、各校の充実した陣容で国内のトップゾーンを形成、発展期を迎えたが、54年、56年2度の分裂騒動など波乱も生じた。早稲田大学が各シーズン上位の常連校として実力を発揮、日本体育大学立教大学が追った。50年代終盤から芝浦工業大学、70年代に中央大学が台頭、新しい時代へ進んだ。オリンピック復活で各大学の意欲も高まったが、実業団の本格化で、しだいに国内最上位における勢いは乏しくなり、「学生界」の制覇を目標にすることで伝統の大看板を守り続けている。46年秋に女子リーグが行なわれ、49〜61年まで中断のあと再開、現在に至っている。
◆1938年の「東京大学学生リーグ」から2013年秋季までの優勝校と通算優勝回数
【男子】日本体育大45回、早稲田大27回、芝浦工業大16回、筑波大(文理科大・東京教育大)18回、中央大14回、日本大11回、立教大10回、慶應義塾大5回、明治大3回、国士舘大2回、法政大1回。(注)3校同率2回、2校同率1回の優勝があるためシーズン数(147)と優勝回数の合計数(152)が異なる。【女子】日本体育大49回、東京女子体育大35回、筑波大学27回、東京学芸大1回、東京第一師範1回、埼玉師範1回。(注)3校同率1回、2校同率2回の優勝があるためシーズン数(110)と優勝回数の合計数(114)が異なる。
【2013年秋季の加盟校】男子1部10校、2部10校、3部8校、4部8校、5部8校、6部8校、7部16校。ほかにも不参加校15校。
女子1部8校、2部13校。ほかにも不参加校8校。

関東選手権

1937年10月、東京で4チームによって行なわれた国内最古の大会。43年の第7回まで毎年開催され、42年に1回だけ女子の部も設けられた。46年男子にさきがけて復活したが、同年秋、関東学生リーグ女子の発足で、この時も1回だけで終わった。49年、第8回(復活第1回)として男女ともに再開するが、51年休会。54年新大会(通算第11回)で再々スタートし、国民体育大会関東予選会を兼ねた。現在は関東クラブ選手権の第2タイトルとして、伝統の回数を形式的に受け継いでいる。

加算式

競技時間の経過を選手、観衆などに知らせる会場内の時間表示。「0」でスタートし「30」でハーフで終わる方式が望ましいとされる。「30」から「0」への減算式でもかまわない。

加藤 典代(かとう・ふみよ)

日本人女子として初めてヨーロッパのトップ(全国)リーグでプレーした選手。関東学生選抜の一員として2度の西ドイツ(当時)遠征で本場の有力クラブの目にとまり、日本体育大学卒業(82年3月)を待ってドイツリーグ1部南地区(ブンデスリーガ女子)のTVアウエルバッハ入り、82年終盤から84年まで主戦メンバーとして50試合以上出場をマーク。全日本(82年)にも選ばれている。59年5月栃木生まれ。

キープ keep

自軍がボールを持ち攻撃をしつづけること。試合の流れを握って主導権を保ちつづけること。

キーパー

ゴールキーパーに同じ。

「キーパー・ボール」

ゴールエリア内にあるボールを指し、ゴールキーパーの領域という意味で呼ばれる。

警告

スポーツパーソンシップに反する行為や相手に対する競技規則上の違反に対して与えられる罰則。
個人に対しては1回が限度で、2回目以降は「退場」「失格」となる。チームに対して合計3回、チーム役員に対しては合わせて1回で、同様の処置がとられる。

慶應義塾大学(東京)

37年9月、日本最初の本格的ハンドボールチームとして誕生。40年に東京市(当時)で夏季オリンピックの開催が決まりハンドボールの開催も確定、国内での強化が急がれるなかで、学内の球技経験者を集めた。当時、日本スポーツ界の要所に慶應出身者・関係者が多かったことがきっかけとされる。しだいに「ハンドボール愛好者」が増え、41年春から東京学生リーグ(現・関東学生リーグ)3連覇、43年春にも優勝、第2次大戦前の最強チームの1つとされる。85年秋に42年ぶりの優勝を飾り話題になった。02年女子チームが発足。

ケンパ Bernhard Kempa

ベルンハルト・ケンパ。西ドイツ(当時)が50年代後半(主に11人制)に生んだ世界的名手。「ムッシュウ・ハンドボール」の名でいまだに人格、技量最高の選手として敬愛されている。52、55年世界11人制選手権優勝、56年その主力として来日。60年代、クラブチームの監督時代にスカイプレーと同型の“空間攻撃”を考案、「ケンパ・トリック(trick)」と名付けられた。01年から「kempa」のブランド名で、さまざまなハンドボール関連商品が発売されている。1920年11月生まれ。

ケンパ・トリック

上掲、「ケンパ」の項参照。

ケルン・アリーナ

98年春、ドイツの中核都市ケルンに完成した現代を代表する大アリーナ。現地では「ケルナレナ」と呼ばれる。ハンドボールでの収容力は19500人、ドイツリーグの名門グンマースバッハがビッグカードのホームに使用、07年2月の第20回世界選手権決勝(ドイツ−ポーランド)では定員を越す大観衆を集めた。世界最大・最高のハンドボール場と言ってよい。2009年Lanxessホールが命名権を獲得。

検体

ドーピング検査で採取(採尿)されたサンプル。

キーパーソン keyperson

組織、行動、行事などの中心人物。

キック

ボールを足(膝より下の足の部分)でボールを蹴ること、蹴ってしまうこと、当ててしまうこと。コートプレーヤーのこの行為は反則。

キール THWキール

1904年創立のドイツを代表する名門スポーツクラブ。正式名称はTurnverein Hassee Winterbek Kiel(THWキール)。ハンドボール部門の活動は23年から。11人制時代に2回国内制覇している。
57年ドイツ選手権で初優勝、そのあと2回優勝を飾ったが77年ドイツリーグの正式発足後は勝運に恵まれず93年になって初めて制覇、一気に全盛期へ進み5連覇(04〜08年)1回、3連覇2回など常勝を誇り通算優勝回数は18回。07年にはヨーロッパチャンピオンズリーグを制し、そのあとさらに2回栄冠を飾った。90年代以降スウェーデン、デンマークなど北欧の超一流選手の補強を続けた積極さが勝因とされる。08年秋、ヨーロッパチャンピオンズリーグ決勝(07年)でレフェリーを買収のスキャンダルが表面化。クラブ側は否定したが、イメージダウンは免れなかった。
ホームゲームはつねに10250人の満員で、事業力も抜群、現代最高、最強のクラブといえる。71年に来日している。愛称とマスコットは「しま馬(ツェブラ)」。

期限付き移籍

所属しているチームで出場機会の少ない選手が、他チームからの要請で期間を限って一時的に移籍し、出場(実戦)のチャンスを得るようにすること。「レンタル(rental)」とも呼ばれる。即効的、臨時的強化のため利用されるケースも多く、規制の動きがある。

帰化選手

ほかの国の国籍を取得し、その国の国民となるスポーツ選手。代表チームの戦力増強のため、外国籍の有力選手に、国籍取得を勧めることがある。国家の分、独立、統合などで新国籍となる場合も少なくなかった。即効的な強化を防ぐため体表チームでの活動には制限がある。

棄権

参加、出場の手つづきをしていたチームが、何らかの事情で不参加、不出場を余儀なくされ、あらかじめ通知して試合を行なわないこと。規定のメンバー不足、社会情況の影響、交通事情による遅刻、チーム財政などの理由が多い。勝ち抜き戦では相手側は「不戦勝」となり、スコアは付されないことが多い。総当たりリーグ戦では1−0、2−0、5−0、7−0、10−0、12−0、14−0など共通の規定はない。日本ハンドボール協会の主催大会(試合)では理由のいかんを問わず、ペナルティが課せられることもある。

木野 実(きの・みのる)

70年代日本を代表する選手。立教大学−全立教−湧永薬品(現・湧永製薬)で活躍、ミュンヘン・オリンピックを目指す全日本の中心選手としてマスコミの注目を集める存在となった。ミュンヘン・モントリオール・モスクワオリンピック代表、世界選手権出場3回。現役を退いたあとは全日本男子ジュニア、湧永製薬の監督、日本ハンドボール協会広報担当理事として97年熊本世界選手権メディアオフィサーをつとめた。環太平洋大学(岡山)の男子チーム監督のあと京都大コーチに招かれている。1945年12月大阪生まれ。

紀野 奈々美(きの・ななみ)

モントリオール・オリンピックを含み74〜81年全日本で活躍したあと、82年4月女性初の全日本コーチとなった(監督は鈴木義男)。ホームチームは立石電機。大分東高校出。1955年12月大分生まれ。

岸(岸清一)記念体育会館

国内のスポーツ団体の多くが本部事務所を置くビル。41年に設置され64年7月、現在の場所(東京都渋谷区)に新築された。地上5階、地下3階。日本ハンドボール協会は5階にある。岸清一は実業家、初代日本ボート協会会長。33年66才で他界。死後、多額な寄付があり記念館建設となった。

ナック(ノック)アウトシステム knockout-system

勝ち抜き戦に同じ。総当たり戦とは異なり、ナックアウト(勝利)して勝ち進むこと、あるいはナックアウトされた(敗戦)チームが退く大会方式。

神戸クラブ(「神戸送球倶楽部」)

36年のベルリン・オリンピック参加を目指して35年3月に結成されたチーム。神戸に在住したドイツ人などハンドボールを間近に見聞する機会の多かったサッカー、バスケットボール、陸上競技などの愛好者によって編成、37年12月神戸で在神戸ドイツ人チームと初の公開試合を行なった。国内では、この2ヵ月前、関東選手権が開かれている。39年7月、神戸クラブが主体となって兵庫協会(第1次)が創立され、40年の第3回全日本選手権(東京)では準決勝に進出した。43年関西協会結成記念試合(西宮)で全神戸の主力となったあと、動きが伝えられなくなってしまった。

公益財団法人

日本ハンドボール協会の“社会的な資格”で2013年4月1日付で内閣府から認可された。日本協会は1938年2月2日〜1981年3月10日が任意団体、81年3月11日〜2013年3月31日が財団法人で活動してきた。公益法人制度の改革(08年12月)で国内のスポーツ団体の多くは公益法人か一般法人かへの移行の選択が必要となり、日本ハンドボール協会は3年余の検討の結果、より社会的な信用度が高くなる「公益」へ移行した。税制面で優遇されるが財政・事業などで報告義務が増え厳しい監督を受ける。

光州ユニバシアード

2015年7月、12日間にわたって韓国南西部の光州直轄市で開かれる夏季ユニバシアード。男女ハンドボールが史上初めて行なわれる。09年5月、ベルギーの国際大学スポーツ連盟総会で選定されたもので実施が義務づけられている13競技のほか、開催地に委されている選択競技のハンドボールなど8競技も行なうとして注目を浴びた。ハンドボールの参加チーム数などは未定(14年1月現在)。この大会の次は2017年に台湾・台北市で開かれるが、現時点でハンドボールは実施競技に含まれていない。

高知県協会

48年2月設立。同時に社会人の高知クラブが発足する異例ともいえる球史の幕あけだった。そのあと高校界に普及、県内リーグなど強化事業が積極化された。97年、高知高専の第48回全日本高校選手権(京都)出場は特筆される。

皇后杯得点

国民体育大会の冬・夏・秋季3大会の女子競技の順位に与えられる得点。全競技の得点を合計して最高の成績をあげた都道府県に、秋季大会最終日の閉会式で「皇后杯」が授与される。48年に制定され得点計算の方法は数回改正されている。男女総合の順位を競うのが天皇杯得点

高校ハンドボール界

48年、新しい学校教育制度(「6・3・3・4制」)が発足、同年6月全国高校体育連盟が設立され、ハンドボールはいち早く内部機構の専門部として“加盟”、高校ハンドボール界の誕生となった。以来、各都道府県協会関係者の努力によって高校チームは日本ハンドボール協会の愛好者人口の60パーセント以上をつねに占め、学生界の拡充、さらには国際舞台での活躍を支える不動の基盤となっている。近年、少子化の影響で高校の統・廃合が進み、前途に課題を抱える。

国立スポーツ科学センター JISS

2001年10月に東京都北区に開所されたスポーツ科学・医学・情報などの中枢機関。英字名はJapan Institute Sports Sciences。近代的設備のハンドボール練習場などを備えた「ナショナルトレーニングセンター」は08年1月に完成した。略称は「JISS(ジス)」

「高等女学校」ハンドボール界

国内女子草創期の主流を成した。小学校に接続した4〜5年制の学校で、女子の高等普通科教育を狙っていたが、学校体育のハンドボールは競技スポーツとしても注目された。40年、42年の2回の全日本女選手権女子の部は倉敷高女(岡山)が連覇、決勝の相手は梅花高女(大阪)、津山高女(岡山)、41年、神戸で在日ドイツ人を中心とする外国人女子チームの相手をつとめたのは成徳高女(兵庫)だった。東日本では静岡高女(現・静岡城北高)、大宮高女(埼玉)などが活躍。女子の球史は、しだいに師範学校や体育専門校に受け継がれることになるが46年に始まった国民体育大会の初期に茨木高女(大阪)の春日丘高をはじめ高等女学校勢の活躍が見られる。

高等専門学校(高専)ハンドボール界

62年、産業界の要請で設立された高等専門学校は中学校の卒業生を受け入れる5年制が特色。当初、ハンドボール活動は10校程度だったが次第に普及、95年、全国高専総合体育大会の公式競技となって、各校の関心がいちだんと高まり、08年3月現在、全国62校のうち43校にハンドボールチーム(部)が設けられている。3年生までが高校の大会に、4、5年生は大学の大会に参加できる。

「国立8大戦」

旧帝国大学7校と神戸大学による「定期戦」。56年の東京大学−京都大学定期戦の際、大阪大学、神戸大学が来場、4大学対抗を行ない準備大会とし、57年名古屋で名古屋大学、東北大学が加わり6校によって正式発足、60年北海道大学、62年に九州大学が参加して、現在に至っている。

国立代々木競技場

2020年東京オリンピックのハンドボール全日程が行なわれる東京渋谷の室内競技場。
1964年東京オリンピックの競泳会場として63年2月に建設工事が始まり、開会まで残り39日に完成した。建設・総合意匠は丹下健三氏(故人)。64年12月、冬季はスケート場として使用され、さらに77年氷の上に床を張って室内競技場としても整備。ハンドボールは84年5月の第5回国際スポーツフェアで初使用している。64年の施設がほぼそのまま20年の会場になるのはハンドボールだけである。施設は第2体育館も備えているが、競技は収容力12000席を擁する第1体育館のみで7月25日から8月9日まで男女交互に16日間連続で行なわれる予定。

国際アマチュアハンドボール連盟

International Amateur Handball Federation。現在はない。26年8月オランダで開かれた国際陸上競技連盟総会でドイツを中心にヨーロッパ各国の陸上競技界からハンドボールの国際組織結成が呼びかけられ、10ヵ国によって同年11月同連盟内に「ハンドボール委員会」が編成された。2年後、アムステルダム(オランダ)・オリンピックで国際オリンピック委員会の支持を得て、28年8月4日国際連盟設立にこぎつけた。加盟国はアメリカ、カナダ、デンマーク、ドイツ、フィンランド、フランス、ギリシャ、アイルランド、オーストリア、スウェーデン、チェコスロバキアの11ヵ国だが、各国にハンドボール組織が確立されていたわけではない。初代会長は国際陸上競技連盟のP・エドストリョーム(スウェーデン)会長が推されたが、すぐにラング(ドイツ)に代わった。事務所はベルリン(ドイツ)。日本は日本陸上競技連盟関係者が手続きし、12番目の加盟国となった。すぐに19ヵ国を数えるまでになる。
34年、国際競技規則を正式制定、36年ベルリン・オリンピック、38年の世界選手権(7人制、11人制)、加盟国も38に伸び、会長は34年からカール・リッター・フォン・ハルト(ドイツ)となる。ベルリン・オリンピックでの採用(男子11人制)は34年5月に決まったものだ。順調な発展も第2次大戦のため“休止”となり、連盟そのものが自然消滅してしまう。英文の略称、略記はIAHF。

国際大学スポーツ連盟

Federation International du Sport Universitaire(フランス語)。49年パリで設立され03年11月現在、世界134の国と地域の大学スポーツ組織がメンバーとなっている。2年にいちどの総合競技大会「ユニバーシアード」を主催するほか、ハンドボールなど25競技の「世界学生選手権」を開いている。フランス語略称はFISU。本部はブリュッセル(ベルギー)。

国際軍隊スポーツ連盟

Conseil International du Sport Militaile(フランス語)。48年2月ベルギー、フランスなど5ヵ国の軍隊スポーツ関係者がフランスに集合して発足。03年10月現在、世界122の国と地域がメンバーとなっている。ハンドボールなど24の競技別「世界軍隊選手権」を主催している。95年から念願の「軍隊スポーツ・ワールドゲームズ」を4年にいちど開いているがハンドボールが実施されたのは07年の第4回(インド)だけ。フランス語略称はCISM。

国際女子リーグ

Women Handball Regional League(WHRL)。09年からスロベニア、クロアチア、オーストリア、マケドニアなどの女子有力クラブが加盟して行なわれている国際女子リーグ。13〜14年シーズンは8クラブが参加。

国際ハンドボール連盟 

International Handball Federation。第2次大戦1年後、46年7月11日コペンハーゲン(デンマーク)にデンマーク、フィンランド、フランス、ノルウェー、オランダ、ポーランド、スウェーデン、スイスの8ヵ国の代表が集まり、世界のハンドボール新組織立ち上げを協議、一気に設立へと動いた。その日のうちに、オーストリア、ルクセンブルグ、ポルトガルから代表が送られ、この11ヵ国とベルギーが最初のメンバーとなる。初代会長はゲスタ・ビヨルク(スウェーデン)。48年男子、49年女子の11人制世界選手権をまず開催、54年男子、57年女子の7人制(室内)世界選手権を行ない、室内主流の芽生えを早くも感じさせることになる。
日本は52年9月の第4回総会(西ドイツ=当時)で20番目の加盟国として宿願の承認を得る。それまでの19ヵ国はすべてヨーロッパ勢。
55年、国際オリンピック委員会に対し、60年のローマ・オリンピックでの採用を働きかけるなど、オリンピック参加が大きな目標となるが、競技面では11人制を見送る国が年ごとに増え、男子は66年の第7回、女子は60年の第3回を最後に世界選手権の幕が閉じられる。65年国際オリンピック委員会は、72年のミュンヘン・オリンピックでハンドボール(男子7人制)の実施を決定、76年モントリオールで女子も加わった。この動きが刺激となり、加盟国数は66年39、76年66、86年109と伸び、09年6月166、13年9月199を数え、世界の愛好者総数は795000クラブ・1900万人といわれる。90年代以降、マーケット路線が促進され、93年から世界選手権は2年おき開催、03年から1〜3位に賞金を贈る時代を迎えた。94年からプロフェッショナル選手の参加も容認している。92年7月イタリアで始まった「ビーチ競技」の普及も順調である。
主催する世界選手権は38年からの男子、57年からの女子に加え、77年から男女ジュニア、01年からの男女ビーチ、05年からのユースがある。
ビヨルクのあと会長はハンス・バウマン(スイス、50〜71)、パウル・ヒヨーグベルグ(スウェーデン、71〜84)、エルヴィン・ランツ(オーストリア、84〜00)、ハッサン・ムスタファ(エジプト、00〜現在)と引き継がれている。本部はバーゼル(スイス)、事務総長はジョエル・デルプランクェ(フランス)。英文の略称、略記はI.H.F。

国際ハンドボール連盟理事会

会長、事務総長など18人のメンバーによって年3〜4回開かれる。任期は4年間。議長は会長がつとめる。日本では97年(熊本)、03年(神戸)の2回開かれた。カウンシルと呼ばれる。

国際ハンドボール連盟総会

国際ハンドボール連盟の全加盟国の代表が出席して2年にいちど開かれる最高決議機関。オリンピックイヤーあるいはその翌年の総会で役員の選出、競技規則の改訂が協議される。第1回は46年、07年までに31回行なわれた。このほか、緊急議題を協議するため臨時総会が48年と03年に招集されている。議長は会長がつとめる。アジアでは88年ソウルで第22回総会が開かれた、総会での公用語は英語、ドイツ語、フランス語の3ヵ国語。コングレスと呼ばれる。07年から西暦奇数年の開催になり、次回は15年ハンガリーの予定。

国際オリンピック委員会

International Olympic Commitee。1894年6月23日パリで創設された。07年現在加盟している国と地域の国内オリンピック委員会(National Olympic Committee=NOC)は202。日本オリンピック委員会(=JOC)は、12年のストックフォルム・オリンピックに日本が初参加するために大日本体育協会(=大日本体育会)が発足し、その1委員会として組織、加盟した。
国際ハンドボール連盟は46年に承認スポーツ団体となっている。英文略称、略記はIOC、固有名はフランス語のCIO。本部はローザンヌ(スイス)。会長はトーマス・バッハ(ドイツ)。委員は103人(13年9月現在)。

国際公認審判員

国際ハンドボール連盟が公認する「IHFレフェリー」。50才が定年。制度は数回にわたって変更されているが、日本人で資格を取得したのは史上(57年〜13年)60人。

国際スポーツフェア sports fair

83年から88年まで東京代々木の国立屋内競技場周辺で開催されたスポーツの総合的なイベント。ハンドボールは84年(ユーゴスラビア〜旧国家〜招待)、85年(中国招待)に行なわれ、84年5月の全日本−ユーゴスラビア戦は、ある時間帯、12000人の観衆で埋まった。

国際スポーツ記者協会ハンドボール委員会

1924年に発足した国際スポーツ記者協会=Association Internationale du la Press Sportive(フランス語)のハンドボール分科会。各国の経験豊かなジャーナリストでハンドボールを担当している人のネットワーク。70年の第7回世界選手権を前に準備され83年第1次委員会、95年現在の組織が確立された。日本からは70〜74年杉山茂(NHK)、76〜89年小山敏昭(共同通信)が名義参加のあと、97年南木貞夫(スポーツイベント)が初の正式メンバーとなった。委員会は84年から国際ハンドボール連盟広報誌「ワールドハンドボールマガジン」を年4回編集、発行し、高山奈美(スポーツライター)がアジア地域通信委員に指名されている。委員長はギュンター・プフェイストリンガー(オーストリア)。協会のフランス語略称、略記はAIPS。

国民体育大会

「国体」と略称される国内最大・最高の都道府県対抗による総合競技大会。第2次大戦終戦直後「日本列島の復興をスポーツで」と全スポーツ人、体育人が新しい力を結集して生まれた。46年11月京阪神地域で第1回を開催、ハンドボールは兵庫・西宮球技場を会場に行なわれ、48年から47都道府県対抗制を全面に打ち出し国内競技スポーツの発展に大きな歩みを刻してきた。87年まで一般男女、高校男女、63年から76年までは教職員男子を加えて5種別、開催地が“2巡目”となった88年から成年男女、少年男女と改正され、成年男子は95年まで1・2部制が採られた。
90年代後半に入って地方の財政事情で大会の適正規模を探る動きが強まり、主催する日本体育協会は“改革”に踏み出し、06年から夏季・秋季大会の一本化が行なわれた。今後の開催県は決定・内定・申請順などを含め、14年長崎、15年和歌山、16年岩手、17年愛媛、18年福井、19年茨城、20年鹿児島となっている。現在の総競技数は40(冬季の3競技を含む)。

「駒沢」

東京都世田谷区の都営総合スポーツ施設。正式名称は駒沢オリンピック運動公園。49年10月の東京国体で開場、ハンドボールの全34試合(11人制、エキシビション3試合を含む)を行なったことで、全国にハンドボール専用競技場としての名が広がり、50年から関東学生リーグのホームグラウンド、51年、53年、55年の全日本高校選手権開催で自他ともに認める日本ハンドボール界の本拠地となった。
64年の東京オリンピックを前に、全施設が改修され、2つの室内施設(駒沢屋内球技場、駒沢体育館)を新設。63年からのハンドボール7人制一本化に大きな力となり、現在に至っている。
40年東京オリンピック(返上)は駒沢を中心にハンドボールなどの屋外競技を行なう青写真があり、64年の同オリンピックもハンドボール会場は駒沢が有力とされていた。

小松 真理子(こまつ・まりこ)

日本女子で初めてスペインリーグで活動した選手。北国銀行で活躍のあと03年から同国女子1部プリュスフレスク・ウニオ・エスポルティーバ・イエィダ、07年からポモチオネス・パライソ・カストロAA、08年から10年まで早船愛子のいるビィカール・ゴヤに加わった。11年帰国、HC高山(現・飛騨高山ブラックブルズ岐阜)、北國銀行でプレー。元日本代表選手。ワールドゲームズ(01年)のビーチ競技にも日本代表として出場している。小松商高出、74年11月石川生まれ。

公認審判員

52年に規定が整備され、55年から本格化した制度で日本ハンドボール協会が公認した審判員。18才以上に申請資格があり(ヤングレフェリーは16才以上)審判技術によって4階級(A、B、C、D)に分けられ、満50才の年度末で定年となる。09年3月現在、国際審判員14名、A級285名(うち女性8名)など総数2751名が登録されている(終身審判員121名を除く)。

公認競技別指導者

06年度からこれまでの文部科学省制定を、日本体育協会が公認、日本ハンドボール協会などと養成するシステムに変えた。「スポーツ指導者」のうち「競技別指導者」は「指導員」「コーチ」に分かれ、さらに各2カテゴリーが設けられる。06年度末の日本ハンドボール協会の登録状況は、「指導員」661人、「コーチ」は「上級コーチ」85人、「コーチ」216人となっている。日本ハンドボール協会による「J級指導員」は33人。

公式国際試合

国を代表するチーム同士の対戦。レフェリーが第3者国であることが望ましい。かつては国際ハンドボール連盟加盟国が非加盟国と対戦するには、同連盟の承諾を必要としていた。主な史上最初の公式国際試合は次のとおり。

世界・男子室内 1935年3月8日スウェーデン18−12デンマーク=コペンハーゲン(デンマーク)
   ・女子室内 53年11月29日ノルウェー5−3西ドイツ(当時)=キール(西ドイツ)
日本・男子室内 61年3月1日チェコスロバキア38−10日本=カールスルーエ(西ドイツ)〜第4回世界選手権〜
   ・女子室内 62年6月24日西ドイツ12−4日本=テクニッヒ(西ドイツ)
国内・男子室内 66年10月3日中国18−17日本=駒沢屋内球技場(東京)
   ・女子室内 75年2月28日日本19−4イスラエル=東京〜モントリオールオリンピックアジア大陸代表決定戦〜
  
世界・男子11人制 25年9月13日オーストリア6−3ドイツ=ハレ(ドイツ)
    (23年7月8日にアルゼンチン7−3ウルグアイ戦がブエノスアイレス(アルゼンチン)のフェロカリル・オエステスタジアムで行なわれた記録と写真がある)
   ・女子11人制 30年9月17日オーストリア5−4ドイツ=プラハ(チェコスロバキア)
日本・男子11人制 56年9月30日西ドイツ28−12日本=東京・後楽園競輪場

日本の女子11人制は対戦がない。世界の女子7人制はオスロ(ノルウェー)のクレーコートで52年10月19日西ドイツ4−3ノルウェーが行なわれている。前掲の室内より早い。

交代

「交代しようとするプレーヤー」がコートから出てしまえば、いつでも、回数に制限なく交代ラインを通って競技に出場できる。交代を記録席やレフェリーに告げず自由に行なわれるようになったのは62年。

交代ライン(交代地域)

センターラインを中心点にベンチ側のサイドラインの一部として4m50の距離に示されたポイントまでを指す。この「9m」ラインが交代プレーヤーの出入り口(交代地域)である。

「交代プレーヤー」

自軍のプレーヤーと交代して出(入)場するために、競技中、交代ラインで待機するプレーヤー。

クラウゼ・ロスヴィッタ Roswitha Krause

旧東ドイツ女子の代表メンバー(CP)としてモントリオールオリンピック(76年)で銀、モスクワオリンピック(80年)で銅メダル獲得の原動力となった選手。68年メキシコオリンピックの同国競泳代表で400メートル自由形リレーのメンバー(第2泳者)としても銀メダルを手にしている。オリンピック2競技でメダリストとなったハンドボール選手はこのあと出ていない。79年2月、東ドイツ代表の一員で来日。49年11月ライプチヒ生まれ。

空間プレー

57年の規則改正でボールが手から離れていればゴールエリアの“上空”に入っても反則とならなくなり、各国で一斉に技術開発された。ジャンプからのとびこみ(プロンジョン)シュートのほか、日本、韓国などが考案した「スカイプレー」はハンドボールの魅力を増す画期的な攻撃法である。11人制では54年からゴールエリア上の空間のプレーが認められていた。

熊本県協会

47年10月設立。国内有数のトップゾーン。旧制中学を中心として球史は始まり、その歴史が新制高校へと受け継がれ女子を中心に全国的強豪を輩出した。県教職員大会を軸とした一般への普及も積極的で、国内を代表する社会人(企業)チームの発足を促した。“県技”ともいえる成熟が97年の世界選手権(=後掲)の招致−開催−成功へとつなげている。03年全国大会優勝100回をマークした。

熊本アジア選手権

00年9月24日から30日まで熊本市、山鹿市などでシドニー・オリンピックアジア予選を兼ねて第9回(女子第7回)が行なわれた。男女とも参加5ヵ国の総当たり戦。韓国が男女の優勝とオリンピック出場権を得た。日本は男女とも3位。

熊本アジア女子ユース選手権

2011年9月23日から28日熊本県山鹿市で行なわれた第4回大会。5ヵ国が参加、優勝は韓国、日本は2位。イラン、カタールのイスラム系両国が出場、注目された。韓国と日本は12年の第4回世界女子ユース選手権出場権を獲得した。

熊本世界男子選手権

正式大会名は第15回世界男子選手権。97年5月17日から6月1日まで熊本市パークドーム、熊本市総合体育館、八代市総合体育館、山鹿市総合体育館を会場に世界24ヵ国を集めて開かれた。
90年代に入ってすぐ熊本県当局に世界的スポーツイベント誘致の動きがあり、95年から2年おき開催となるハンドボールに着目、94年9月の第25回国際ハンドボール連盟総会(オランダ)で、対立候補エジプトを圧倒し、ヨーロッパ地域外で史上初の開催(当時)が決定した。大会は県・市一体の展開で空前の盛況となり、全期間を通じてののべ観客数は288955人(全80試合)、事業予算約24億6600万円という史上特筆すべきスーパーイベントとなった。優勝ロシア、2位スウェーデン、3位フランス。日本はベスト16の決勝トーナメントへ進出したが15位。最優秀選手タラント・ドイシェバエフ(スペイン)、得点王・尹京信韓国、62点)。
2019年12月、第24回世界女子選手権の開催が決まっている。

熊本世界女子選手権

2019年12月に予定される第24回世界女子選手権開催に熊本県が名乗りをあげ、13年9月の国際ハンドボール連盟理事会(カタール)で審議され支持を得た。対立候補はノルウェーだった。この大会がアジアで開かれるのは90年韓国、09年中国についで3度目。すべての日程(競技)を熊本県内で行なうかどうかは日本ハンドボール協会が今後検討する。15年はデンマーク、17年はドイツで行なわれる。

カン・フー kung-fu

フランスなどヨーロッパの一部の国が「スカイプレー」に付けた呼び名。中国拳法の空間での武術と東洋のイメージを重ねたもの。「スカイプレー」はこのほか「ケンパ・トリック」「飛行船」「エアボーン」「ニッポン」などとも呼ばれる。

倉敷高等女学校(岡山)

37年秋に誕生した国内初の本格的女子チーム。当時の岡山県球界は東京、大阪、神戸と肩を並べる活況で、その中心的な存在でもあった。女子の全国的普及でチームの目標も高まり、40年第1回全日本女子選手権で梅花高女(大阪)を延長の末3−2で破り記念すべき初代クィーンとなった。戦後、倉敷精思高校を経て現在の倉敷青陵高校に至るまで活発な動きを継承している。

倉敷絹織(岡山)

39年7月に結成された初の実業団(男子)チーム。活動は主に県内でとどまり40年代で休部となった。

藏田 照美(くらた・てるみ)

モントリオール・オリンピックで女子得点王に輝いた選手(28点=5試合)。リヒター(東ドイツ)、ステルビンスキー(ハンガリー)、マカレシュ(ソ連=当時)ら名だたるアタッカーをおさえての受賞は高い評価を得た。ホームチームは立石電機(熊本)。73年から日本代表、75年の第6回世界女子選手権にも出場。菊池農高出。51年2月熊本生まれ。

車椅子ハンドボール

90年11月京都障がい者スポーツ振興会などが京都で「全京都車いすハンドボール大会」を開き、そのあと毎年、継承されている。01年10月仙台で開かれた第56回国民体育大会のデモンストレーション「身体障がい者スポーツ」の1つとして行なわれ、それをきっかけに近畿を中心にルールの制定や全国大会開催の機運が高まり、04年1月兵庫県姫路市で「第1回日本車椅子ハンドボール記念大会」が行なわれた。日本車椅子ハンドボール連盟は03年に発足し05年から日本ハンドボール協会の加盟団体。08年チェコで初のヨーロッパ選手権が開かれた。南米では国際大会が盛んに行なわれている。

車椅子ハンドボール競技

ヨーロッパでは70年代から各国で行なわれていたが、統一したルールなどは整備されていない。
日本車椅子ハンドボール連盟による基本ルールは1チーム6人(うちゴールキーパー1人)、ボールを保持して連続4回車輪をこぐことが定められている。コートは18m×28m、前後半各15分。

クウェート

ハンドボール協会は1966年に創立。オリンピックでハンドボールが復活するのを知り、同国スポーツ界のリーダーでもある王室など富裕層が運営する有力スポーツクラブが一斉にこのスポーツへ注目したとされる。
70年国際ハンドボール連盟に加盟したあとアジアの組織化を図り同時にその主導権を握るべく行動、74年アジア競技大会競技に加えさせ、76年アジアハンドボール連盟の設立を先導した。さい配を揮ったのは首長一族のアル・ジャバー・アル・サバハ氏で、同氏が90年に逝去したあとは子息のアル・ファハド・アル・サバハ氏が実権を握った。競技面でも影響力を示し、その強引な手腕が極東勢との対立を深めた。一方でシニア(代表)、ジュニアの実力は着実に上がり、アジア球界の上位に定着している。
2010年1月、国際オリンピック委員会は同国スポーツ団体役員の選任に政府が絡んでいるとし、改正が行なわれるまで、一切の国際スポーツ活動を停止させていた。

競技者資格規程

アマチュア、ノンアマチュアを問わず日本ハンドボール協会が「競技者」としての個人資格を定めた規程。国際ハンドボール連盟の「参加資格規程」〜エリジビリティコード〜に準じており、非契約、契約の2種別。契約選手はコントラクトプレーヤーに同じ。
旧来型のアマチュアは非契約競技者として扱われ、90パーセント以上がこの種別だが、企業の嘱託として報酬などを受け取る契約者も年ごとに増えている。94年から国際ハンドボール連盟が認めているプロフェッショナルは日本協会の種別にはない。国内大会では大会ごとに特定の資格規程が設けられる場合がある。

競技規則

世界すべてのハンドボール競技をフェアで円滑に運ぶために国際ハンドボール連盟が制定する。26年ドイツが中心となって国際ルールを検討、27年に史上初のルールブックがまとまり、28年国際アマチュアハンドボール連盟設立と同時に施行された。このルールは35年7月19日付で日本陸上競技連盟によって翻訳・刊行されている。その年、室内とともに新たな国際ルールが定められ38年2月日本ハンドボール協会は発足と同時にこの35年版を採用した。第2次大戦後、47年に新たな組織・国際ハンドボール連盟が新ルールを明らかにし、日本ハンドボール協会は50年に翻訳、51年に全国講習会を行ない採用した。そのあと58年フリースローでのレフェリーによる吹笛廃止など競技のスピード化を目指す改正が重ねられ、現在はオリンピックイヤーあるいはその翌年の国際ハンドボール連盟総会で新案を協議、原則として翌年8月1日からの発効が定着している。
日本ハンドボール協会は、1または2年おきに「競技規則」を発行、自由に購入できる。

競技会内ドーピング検査

検査対象競技者が参加する大会で、原則として競技開始8時間前および終了後8時間以内に行なわれるものをいう。
合宿中や日常生活で予告なしに行なわれる検査は「競技会外ドーピング検査」と呼ばれる。

競技場

@屋内、屋外を問わずコートとコート周辺。競技エリア(コート)は68年から国際ハンドボール連盟によって「40m×20m」(ビーチを除く)と規定されている。
Aハンドボールの行なわれる会場。

京都府協会

47年5月設立。旧制高校や大学チームによって活動が行なわれ、そのあと高校男女へ広がった。88年の京都国体会場地、京都府田辺町(現・京田辺市)が同年8月に初の「全国小学生大会」を開き、現在に至っているのは特筆される。

旧制高等学校

第2次大戦前の中学校愛好者が高校(旧制)で引き続きハンドボールに親しみ、47年、48年の2回、京都で全国大会が行なわれ、戦後ハンドボール史に貴重な足跡を残している。優勝は「大阪高校」の連覇。

九州学生リーグ

50年の九州地区大学体育大会に参加したハンドボール部門を母体に各地の連携が図られたが、本格的な活動は63年の全九州学生選手権から(女子は76年)といえる。そのあと福岡学生リーグ、南九州学生リーグなど地域別の動きが軌道へ乗り、67年正式に九州学生ハンドボール連盟が発足、92年待望の九州学生リーグが男子4部と女子で結成された。“前身”の九州学生選手権(63〜91年、男子)は西南学院大学が64年からの6連覇で無敵を誇り、そのあと九州産業大学が強みを示していた。
70年代に始まった韓国との交流や、各校の意欲的な競技力アップは、国際級選手の輩出に実っている。
92年春から男子は福岡大学が42回優勝という圧倒的な強さで、東和大学が97年春と00年秋の2回一矢を報いている。女子は92年春から2季制となり13年秋までの44シーズンは福岡教育大学25回、福岡大学19回と2校の争いに終始している。
◆1992年から2013年秋季までの優勝校と回数
【男子】福岡大42回、東和大2回
・1963年から91年まで「選手権時代」の優勝校と回数 福岡大8回、九州産業大7回、西南学院大5回、熊本商大3回、福岡教大2回、鹿児島大1回、久留米工大1回、琉球大1回、東和大1回。
・通算優勝回数 福岡大50回、東和大3回
【女子】福岡教大25回、福岡大19回
・1976年から91年まで「選手権時代」の優勝校と回数 福岡大11回、福岡教大3回、九州女子短大2回
・通算優勝回数 福岡教大28回、福岡大28回、九州女子短大2回
【2013年秋季の加盟校】男子1部6校、2部6校、3部6校、4部3校。女子1部6校、2部6校。