O.A.GK

「ワン・アゲインスト・ゴールキーパー」(One against the Goalkeeper)の略称、略記。ビーチハンドボールで両チームが前半(第1セット)、後半(第2セット)を各1セットずつ勝った場合(セットオール)に行なわれる決着方法。攻撃側はGKからのパスを受けたCPの単身、守備側はGKのみ。両チームがそれぞれ指名した5名の選手によって行なわれる。

OCA

アジアオリンピック評議会に同じ。その英文略称、略記。

オセアニア大陸連盟

93年7月に設立された国際ハンドボール界でもっとも新しい大陸連盟。同時にこの地域の活性化が期待される発足だった。中心のオーストラリアは74年創立、そのあとニュージーランド、サモア、バヌアツ、クック諸島がメンバーとなったが、オリンピックへ代表国を送る権利はまだ与えられていない。世界選手権は99年の男子から1ヵ国の枠が配分されるようになり、男女隔年で選手権も開かれるようになった。13年9月の国際ハンドボール連盟総会でパプアニューギニア、タヒチなど9地域が加わり、メンバーは16となった。07年5月、オーストラリア女子代表の監督に日本球界では実績のないオーストラリア在住の日本人・木下克彦氏が就任し話題となった。Oceania Handball Faderation、英文略称、略記はOHF。オセアニアは大洋州の意。会長はポウル・スミス(オーストラリア)、事務総長はエリック・モウヒカ(ニュージーランド)。
この連盟の発足前にオーストラリアを中心に85年からニューカレドニア、タヒチなどによる「オセアニア選手権」が開かれ、第1回(85年7月、タヒチ)には全日本学生選抜(男子)がゲスト参加した。

オフェンス offense

攻撃の方法。攻撃する選手。

オフサイド off side

現行にはないが、11人制ではもっとも特徴的なルールの1つ。38年度版の競技規則以降、改正の焦点はつねにオフサイドエリア、オフサイドライン、オフサイドに据えられていた。

オフィシャル official

@試合におけるスコアラータイムキーパーを指すAチームの役員B公式記録あるいは記録が書きこまれた用紙C公式の試合。
オフィシャルランゲージ(公式用語)、オフィシャルスポンサー(公認スポンサー)などとも使われる。

オフィシャル エリア official area

競技規則に明示されたコートと選手席、記録席、運営役員(ジュリー、テクニカルゲート、マッチバイザーなど)席などの全域、一般エリアと区別されている。ペナルティとして立ち入りを禁じられたチーム役員、選手は、その外側から区域内の関係者に声をかけることも認められないケースがある。
最近はADカード、IDカードの適用される会場全体を指す場合が増えている。

オフィシャルサプライヤー official supplier

協会、チーム、競技者などと契約して用具などの商品を提供する主に企業。競技用具だけではなく食料、薬品、事務用品など業種、品種は増えている。

小笠原久郎

03年12月の第16回世界女子選手権(クロアチア)で日本人初のレフェリーをつとめた。国際ハンドボール連盟のA級レフェリー資格の取得は94年2月。62年10月北海道生まれ。パートナーは浜田浩和

大分県協会

62年3月設立。その14年前、県内の男女各1高校によって県協会前史的な活動が行なわれていたが発展せず、60年代に入って本格化、高校男女に有力チームが育った。

岡山県協会

38年1月16日「岡山県送球連盟」が設立された。日本ハンドボール協会にさきがけること17日、国内最初の地方協会である。高等女学校を中心に活動が進んだが第2次大戦で43年初夏を最後に休止状態となり、46年4月「岡山県送球協会」が新発足した。49年岡山大学が活動を始め、そのあと高校および教員を主体とする社会人層などが中心となった。小学生への普及にも意欲を示す。

岡山県ハンドボール選手権

37年11月28日に第1回が行なわれた国内最初の地方(県域)公式大会。すでに小学校、中学、高等女学校、一般男子などにチームが発足していた。20年代から30年代前半に東京などでハンドボールの指導を受けた人たちが、岡山県内で“最初の成果”をあげたものだ。そのあとも女子を中心に着実な発展を遂げ、戦火が激しくなった43年5月、高等女学校による県内3地域大会が戦前“最後の公式戦”となった。東京、阪神両地域での活動に優るとも劣らぬ情熱は、特筆されるものがある。

岡本 大(おかもと・だい)

日本人で最初の外国代表チーム監督。06年4月から06年12月まで日本ハンドボール協会の推薦でタイ女子の指導を行ない、同国を06年の第1回世界女子ユース選手権に導いた。さらに同年の第15回アジア大会(カタール)女子代表の監督も務めた。08年4月より桐蔭横浜大学男女監督。73年11月茨城生まれ。

沖縄県協会

協会の設立は本土復帰前の65年7月、日本ハンドボール協会にも同年10月に加盟した。当初から高校、中学のレベルは高く、90年代以降は熱心な指導者の活動で小学生からほぼ一貫した普及・強化策が採られ、全国有数の強力ゾーンに成長した。04年1月、浦添市が全国初の「ハンドボール王国都市」を宣言した。クラブチーム「琉球コラソン」が08年日本リーグ(男子)に加盟、注目されている。

「沖縄特別国体」

沖縄県の本土復帰を記念して73年5月4〜6日開かれた国民体育大会の特別開催。ハンドボールはコザ市を会場に高校女子8チームによる競技が行なわれた。

オリンピック

フランスの教育学者ピエール・ドクーペルタン(1863〜1937)男爵が中心となって1896年4月アテネ(ギリシャ)で、古代オリンピック復活の旗印の下に始まった。「近代オリンピック」と呼ばれる。ハンドボールは1925年の国際オリンピック委員会総会で注目され、27年の同総会でジョン・ジョセフ・キーン委員(アイルランド)が正式にオリンピック競技とすることを提案。「選択型競技」としてオリンピックプログラムに加わった。36年のベルリン大会で男子11人制が初めて実施されたが、そのあと52年のヘルシンキ大会でデモンストレーションゲーム(男子11人制スウェーデン−デンマーク)が行なわれた以外、72年のミュンヘン大会での男子7人制まで36年間の空白となる。女子7人制は76年モントリオール大会で初実施。参加国数は男子のミュンヘンが16ヵ国のあと12ヵ国、女子はモントリオールから84年のロサンゼルス大会までが6ヵ国。ソウル大会(88年)からアトランタ大会(96年)までが8ヵ国、シドニー大会(00年)が10ヵ国、北京大会(08年)から男子と同数の12ヵ国になる。
日本の出場は男子が、ミュンヘンモントリオール、ロサンゼルス、ソウルの4回、モスクワ大会(80年)は出場権を得たが不参加、女子はモントリオールの1回だけ。

【日本のオリンピック選手】
◇男子・ミュンヘン=有永修二、近森克彦、早川清孝(故人)、本田洋、氷海正行、飯田誠行、木野実、中井武三、新実俊夫、野田清、佐々木健一、下里敏彦、コーチ/竹野奉昭(選手登録)。
 ・モントリオール=藤中憲二、蒲生晴明、花輪博、本田洋、穂積豊彦、菊池悟、木野実、松原光三、中井武三、佐々木健一、佐藤要二、柴田正章、監督/竹野奉昭、コーチ/東嘉伸。
 ・モスクワ(日本オリンピック委員会認定名簿者)=福井秀人、蒲生晴明、穂積豊彦、池之上孝司、井藤英忠、中本満明、大原真造、大畑孝広、斉藤幸司、斉藤将一郎、関健三、志賀良弘、津川昭、山本伸二。
 ・ロサンゼルス=蒲生晴明、池之上孝司、生駒靖夫、井藤英忠、松井幸嗣、中本満明、西山清、大畑孝広、佐々木伸男、関健三、志賀良弘、高村誠一、田口勝利、上村幸彦、山本伸二、監督/市原則之、コーチ/野田清。
 ・ソウル=藤井泉、橋本行弘、井藤英忠、宮下和広、荷川取義浩、西山清、奥田新治、首藤信一、立木浩二、田口隆、高村誠一、玉村健次、山本興道、山村敏之、矢内浩、監督/野田清、コーチ/佐藤要二、津川昭、塙敏。
◇女子・モントリオール〜5位入賞〜穂積美保子、加藤美紀子、河田栄子、紀野奈々美、小森久里子、古佐原ひろ子、久保徳子、藏田照美、松下仁美、島田夏枝、和田祥子、山下恵美子、監督/井薫

オリンピックオールスター

国際ハンドボール連盟が、88年ソウル・オリンピック以降、地元組織委員会などの後援で選出するベストセブン。表彰は行なわれない。ソウルからアテネ(04年)まで女子で毎回、韓国選手が選抜されているのが光る。

「オリンピックハンドボール」

ハンドボールが普及されはじめた国での名称。現在ではアイルランド、かつてはカナダ、オーストラリアなど。

オリンピックオーダー Olympic order

国際オリンピック委員会が75年に制定した顕彰制度。オリンピック運動への貢献や国際スポーツ交流に功績のあった人に贈られる。日本のハンドボール関係者では、95年に故・荒川清美が銀賞、98年に故・斎藤英四郎が金賞を受けている。

オリンピックソリダリティ Olympic solidarity

国際オリンピック委員会が国際スポーツ組織や各国オリンピック委員会の事業を助成してオリンピック運動の連帯を高める活動。国際ハンドボール連盟も活発な連携で、日本では89年と94年の2回日本ハンドボール協会によって研修会が開かれている。

オリンピック予選

原則としてハンドボールなど球技(ボールゲーム)は大陸別に参加枠が設定される。国際ハンドボール連盟は04年まではオセアニアを除くアジア、アフリカ、アメリカ、ヨーロッパの各大陸に男女1ヵ国ずつを配分、残る枠は世界選手権の優勝国と開催国に当てられ、そのほかの男女6ヵ国は北京大会(08年)から「IHF予選会」を新設して決める。

オルソン Olle Olsson

オレ・オルソン。97年熊本での第15回世界選手権に備えて全日本強化のため日本ハンドボール協会が史上初めて起用した外国人監督。最終順位は15位だったが選手の体重増加を図っての“多食合宿”など、これまでにないトレーニングで注目を浴びた。96年1月〜97年6月まで在任。スウェーデンのミュンヘンオリンピック代表選手。日本のあとサウジアラビア代表、ドイツ、スウェーデンなどの有力クラブのコーチをつとめている。48年6月スウェーデン生まれ。

オムロン Omron

国内を代表する女子強豪チーム。61年熊本で設立された大洋デパートを74年2月受け継いだ。当時のチーム名は立石電機、85年社名(チーム名)が現在のものとなった。大洋時代からつねに全日本女子の主軸を占め、国際レベルの選手を多数輩出している。立石以降14年3月までに全日本総合選手権16回、日本リーグ17回の優勝を飾っている。ホームタウンは熊本県山鹿市。

オン・ザ・コート

コート上で競技する7人のうち、特定の人数の資格を規制する場合の用語。代表的なケースは、日本ハンドボール協会が07年度から外国人選手を1人(試合エントリーは2人)としている。現役+OB(OG)、年令別大会、ビーチ競技の男女混成チームなどでも、それぞれ大会の目的で定められる。

ワン・ドリブル

3歩に制限された移動の間を巧みに利用して行なう“1回のドリブル”のこと。

ワンマン・ダッシュ

自陣でボールを味方が得たと判断すると同時に1人が勢いよく相手陣へ向かいパスを受けて攻撃すること。相手のシュート動作とともにその成否を待たず仕掛けるケースも多い。

ワン・パス

ダッシュして相手陣内へ入った選手へ送る1回(1本)のパス。

ワンサイデッド・ゲーム onesided game

どちらかのチームが一方的な優勢で大量得点をあげた試合、あるいはそのような展開で進行中の試合。実力が段違いの試合もこう呼ばれる。

おりひめジャパン

日本女子代表チームのニックネーム。2013年11月、第21回世界女子選手権(セルビア)出場を前に日本ハンドボール協会が全国公募し集った1106点の中から選んだ。
「おりひめ」は琴座の首星ベガ(Vega)の和名「織女星」の七夕伝説による仙女。日本協会は「華麗・優美なプレーで天の川を渡り世界にはばたく願いを込めた」としている。

大阪アジア女子ジュニア選手権

98年8月31日から9月4日まで大阪・舞洲(まいしま)アリーナで第5回大会が5ヵ国の参加で行なわれた。優勝は韓国、日本は3位。

大阪イーグルス

大阪を本拠とした日本体育大学OBによる教職員クラブ。62年創設以来、目標を国内最上位に据えて活動、大阪教員クラブ、大阪教員団を経て、64年チーム名を日体伝統のイーグルスとした。76年日本リーグ発足と同時に加盟、話題を呼んだ。同リーグには7年在籍(4位1回、5位4回、6位2回)。全日本教職員選手権では抜群のチーム力を誇り、71年から10連覇(通算優勝16回)。現在は活動を休止している。

大阪府協会

39年4月「日本ハンドボール協会関西連盟大阪支部」として設立されたのを前身とする。その業務を第2次大戦直後に引き継ぎ「大阪府協会」となった。戦前は指導者を得た高等女学校が、戦中から戦後にかけては理工、医学系学生が中心となり、活動、関西学生界発足の原動力となって、しだいに高校界へ普及、全国有数のトップゾーンを築いた。全日本高校選手権をはじめ多くの国内公式大会の“初開催地”となっているのは、関係者の情熱、運営組織力を物語る。国際大会の開催経験も数多い。

大阪府立体育会館

52年12月3日に開館した大阪の代表的な室内スポーツ施設。この時に記念行事として行なわれた大阪クラブ−関西学生選抜(男子)戦が日本における室内(7人制)ハンドボールの初試合。改修などのあと現在メインホールの(第1球技場)はフロアが3010u、固定席3131を持つ。第2球技場は913u。

「08年大阪オリンピック」

00年1月大阪市が日本オリンピック委員会の承認を受けて立候補、計画では「08年7月18日から8月3日まで。ハンドボール(男女)は大阪市中央体育館(大阪市港区)を主会場とする」とされた(注・当初案のハンドボール会場は大阪府立体育会館と舞洲アリーナ)。
01年7月モスクワでの国際オリンピック委員会総会による開催地決定投票は5都市によって争われ、大阪市は最初にふるい落とされた(得票6)。この年の開催地は中国の首都・北京に決定。
大阪市の立候補を前に国内では、横浜市を中心とした1都7県にまたがる「08年首都圏広域オリンピック」も名乗りをあげ、日本オリンピック委員会は97年8月、両案を票決(大阪29、横浜17)し、大阪に一本化した。「首都圏」でのハンドボールは千葉市の幕張メッセと千葉ポートアリーナ、川崎市のとどろきアリーナが会場候補地にあげられていた。

大阪歯科大学

第2次大戦直後に設立された関西学生界の強力チーム。46年は大阪歯科医学専門学校としての活動で、同年11月第1回国民体育大会学生東西対抗に西側代表として出場、早稲田大学を5−1で下し、名をあげた。47年6月、現在の校名となり関西学生リーグの上位を活躍の場とした。

大阪体育大学

65年浪商学園(大阪、1921年11月建学)によって設立された。同時に9人の部員によってハンドボール部が誕生、66年関西学生ハンドボール連盟に加盟、68年春2部で初優勝、70年秋から1部に定着、72年春初優勝から10シーズン連続優勝して「西の雄」の座を不動とした。82年宿願の全日本学生選手権制覇を遂げた。
13年秋までに関西学生リーグ70回、全日本学生選手権9回の優勝を誇る。西日本学生選手権では71年に初優勝、90年から9連覇の快記録を立てている。
女子は67年にチームが結成され68年の関西学生女子対抗戦で優勝、そのあと本格化したリーグでは71年春に初優勝し13年秋までに26回の優勝を遂げている。全日本学生選手権では大阪教育大などとともに「関西時代」を告げる活躍を示し始めた。11年、13年に優勝。

大崎電気工業

60年4月東京で、全日本上位と国際進出を目標にスタートしたチーム。その意気込みどおり創部4ヵ月後に第12回全日本総合選手権を制し、早々と「大崎時代」の開幕と、球界待望の「実業団時代」到来を告げた。
積極的な強化でつねに全日本の代表的選手を加え、最高レベルの陣容で精度の高い攻防を展開しつづけた。近年は契約選手の導入など新たな路線を求めはじめている。「大崎オーソル」のニックネーム付きのチーム名を正式登録する試みも採ったことがある。
04年までに全日本総合選手権優勝8回、日本リーグは2004-05年シーズンに優勝。2010-11シーズンはレギュラーシーズンのみの成績で2度目の優勝を手にした(東日本大震災でプレーオフが中止になったため)。97年1月国際ハンドボール連盟による国際クラブ選手権・第1回スーパーグローブにアジア大陸代表として出場。

大崎電気工業・女子

前掲の男子を追って61年4月に男子と同様の高い目標のもとにスタート。翌年の第2回世界女子選手権代表に6人を送りこむなど日本女子の国際的な夜明けを告げる活動をつづった。81年韓国代表の強力デュオ李相玉、李京姫を迎え「外国人選手時代」の先がけとなる。99年シーズンを最後に休部したのは惜しんでも余りある。全日本総合選手権7回、日本リーグ8回の優勝。このうち全日本総合の64、88、89年の3回は「男女優勝」。

大崎企業スポーツ事業研究助成財団

96年4月発足。日本ハンドボール界のトップゾーン強化と国際進出に貢献された大崎電気工業社長・故・渡邊和美の遺志を引き継ぎ「実業団スポーツの振興」の研究事業助成などを目的とする。日本ハンドボール界への助成や企業とスポーツのさまざまな課題の分析など注目を集める事業を展開している。

太田 智子(おおた・ともこ)

2012年11月、島尻真理子をパートナーに日本人で初めての女子国際レフェリーとして国際ハンドボール連盟から認定された。

大谷 武一(故人、おおたに・ぶいち)

1922年7月24日、日本にハンドボールを初めて紹介した教育者。東京高等師範学校の体育教官としてヨーロッパ・アメリカの視察から帰国直後にドイツで見聞のハンドボールを体育指導者に伝えた。そのあと学校体育、競技スポーツ両面で普及に情熱を注ぎ、日本ハンドボール協会設立(38年2月)にあたって副会長となり42年度までつとめた。66年1月78才で他界された。

OQT

Olympic Qualification Tournamentsの英語略記、略称。IHFオリンピック予選会に同じ。

オット Ojgen Otto

オイゲン・オット。1938年から42年まで在日ドイツ大使を務めた人。ドイツの“国技”とあって日本ハンドボール協会草創期の活動に関心を示し、「オット杯」などを国内試合に寄せたとされる。42年秋に帰国。

大塚クラブ

37年11月、史上初の全日本選手権(男子、東京)で優勝したチーム。大会の10日前、初の公式大会となった第1回関東選手権2位の文理科大学のメンバーに卒業生やほかのスポーツとの“兼任者”が加わったメンバーとされる。このチーム名での活動は38年以降ほとんどない。

アウトドア・ハンドボール

一般的には11人制を指す。屋外コートで行なわれる7人制は競技名としてではなく、会場(施設)を示すために「アウトドア」と呼ばれる。

アウトナンバー

@速攻で攻撃側の人数が防御側を上回っている状況
A交代の混乱から規定の人数以上がコートに入っている状態。

アウト・オブ・バウンズ out of bounds

プレー区域(競技場)外に出たボール。時に選手の状況。

アウターゴールライン outer goal line

コートの横20mのラインのうち、各ゴールの両外側の部分をいう。ゴールポスト間の長さは3mで、アウターゴールラインはその左右に各8m50ずつとなる。

オーバーステップ

コートプレーヤーがボールを持って「4歩以上」歩くこと。反則。

オーバータイム

@ボールを3秒より長く手に持っていること。反則A試合時間の延長。

オウンゴール own goal

コートプレーヤーが誤って味方のゴールへボールを入れてしまった時やGKのパスが自チーム選手に当たってゴールインした時などは相手チームの得点となる。ただし、GKがボールをコントロール中にこぼしてゴールを入れてしまった場合にはならない。「自殺点」という表現は好ましくないとされる。
日本リーグはオウンゴールを「監督の得点」として記録する。