「T」

タイムアウト(=後掲)を示すレフェリーのジェスチャー。

テーブル table

表(ひょう)のこと。新聞、雑誌で報道される出場メンバー、順位、個人成績などを表にまとめたもの。試合日程表はタイムテーブル。

帯同審判員制

大会や試合の主催者が担当のレフェリーを準備するのではなく、参加チームに有資格者の帯同を要望する仕組み。世界学生選手権がこのシステムを用いている。

「体育研究所」

1910年代に文部省(現・文部科学省)が東京・代々木西原に開設した。22年7月、日本にハンドボールを初めて紹介した大谷武一が、この研究所の技師であったことから、その後のハンドボールの指導実習や普及の場になった。37年10月の初公式競技会・第1回関東選手権も、研究所のフィールドが会場となり、38年からは、東京学生リーグなどの会場に使われ、戦前の東京におけるホームの1つだった。現在は「渋谷区スポーツセンター」、フィールドは「渋谷区代々木大山公園運動場」として利用されている。

大陸ハンドボール連盟

国際ハンドボール連盟が公認するアジア、アフリカ、アメリカ(全米)、ヨーロッパ、オセアニアの5大陸の連盟。各連盟別に世界選手権への出場枠が配分される。continental federation。英文略称、略記はCF

大洋デパート(熊本)

61年4月熊本市で発足した女子実業団の強豪。翌年の岡山国体優勝でトップゾーンに定着、全日本総合選手権5回を含む23回の全国タイトルを獲得している。68年8月の全日本総合選手権からの連続16全国大会優勝の大記録と68年8月からの公式戦51連勝の快記録は輝かしい。73年11月のデパート火災で栄光のチーム活動に終止符を打った。

退場

相手に対する反則、違反、スポーツパーソンシップに反する行為を繰り返した場合や不正交代(不正入場)などに与えられる罰則。2分間の出場停止(サスペンション)となる。

高松宮宜仁親王(故人)

昭和天皇の弟宮。48年11月の福岡国体ハンドボール競技ご観戦をきっかけに、ハンドボール界は熱いご支援を賜るようになる。全日本高校選手権(50年)、全日本学生選手権(58年)、全日本実業団選手権(61年)のそれぞれ発足にあたって「高松宮杯」が下賜されている。87年2月82才で薨(こう)去され、各杯は02年から「高松宮記念杯」となっている。

対人防御

マン・ツウ・マンディフェンスに同じ。

高田 日呂美(たかだ・ひろみ)

ハンドボール関係者で初の全国高校体育連盟理事長をつとめた人。96〜99年の2期4年在任。東京教育大学出、41年3月東京生まれ。

竹野 奉昭(たけの・ともあき)

11人制〜7人制時代の切り替え期に両種目で抜群の技術を発揮した名選手。非凡な才能は高校(熊本済々黌)時代から注目され、日本体育大学大崎電気とつねに国内を代表する有力チームの攻撃陣の主力で活躍、世界選手権代表3回など70年代前半まで全日本の中心選手として存在感を示し国際的な評価も高かった。75年から82年まで全日本男子監督。日本ハンドボール協会特任福会長、同強化部長、全日本実業団ハンドボール連盟理事長などをつとめた。現在は日本ハンドボール協会参与。36年7月熊本県生まれ。

多国籍活動

母国から離れ外国で市民権を取得、その国の代表選手となる活動。国際ハンドボール連盟は04年3月現在、国籍を変えて世界選手権、オリンピックなどの公式国際大会へ出場することを規制していない。オーストリア女子が東ヨーロッパ各国の有力選手を計画的に招いて市民権を与え代表選手としたのは有名だが、国家の分立、独立でいっそうこの動きは増えている。シドニー・オリンピック(00年)のスロベニア男子代表イストック・プッチは、ソウル・オリンピックにはユーゴスラビアから、アトランタ・オリンピックにはクロアチアから参加、3回のオリンピック出場がそれぞれ異なる国の代表となり話題になった。アトランタでは金メダルメンバー。国際ハンドボール連盟は2011年から代表選手としての活動における変更は「1回だけ」と規定した。

田村 正衛(故人)

三重県体育協会長時代(55〜68年)、女子実業団のトップチーム・田村紡績のオーナーとしてハンドボール界に関わり、69年2月から77年3月まで第5代日本ハンドボール協会会長をつとめた。主要会議に欠かさず出席された最初の会長といわれ、協会の健全経営に情熱を燃やした。アマチュア写真家としても高名で、国内の代表的存在だった。90年2月84才で他界された。

田中 美音子(たなか・みねこ)

93年全日本、同ジュニアに同時に指名され、2度目の参加となった95年9月の第10回世界女子ジュニア選手権(ブラジル)で77ゴールをマーク、得点王となった。それ以降、現在まで全日本攻撃陣の先頭に立ちつづけている。四天王寺高校(大阪)卒業後、93年大和銀行に加わり、6シーズン活躍のあと、00、01年デンマークリーグのスコーバッケン(SKオーフス)に在籍、02年帰国後はソニーセミコンダクト九州の主軸に迎えられ、07年(2月)には日本リーグ女子初の通算1000得点を記録(現在は1272点=12-13年シーズン現在)。世界選手権代表6回、第13回アジア大会(98年、バンコク)得点王。75年1月大阪生まれ。

単審制

68年まで国際的に施行されていた1人によるレフェリング。主審制とも呼ばれた。2人によるレフェリング(復審制)は69年から。

倒れこみシュート

ゴールエリアに身を投げかけ倒れながら放つシュート。プロンジョンシュート

テーピング tapeing

粘着テープを用い、けがの予防、応急処置、再発予防などを行う方法。筋肉や関節、じん帯を補強するが、処置には十分な知識が必要とされる。

垂水 秀代(たるみず・ひでよ)

71年の第4回世界女子選手権(オランダ)で日本人初の得点王となった。全日本やホームの大洋デパートではゲームメーカーとして活躍したが、この大会は得意のステップシュートで21点をマーク、ヨーロッパの有力選手を抑えた。第5回世界選手権にも出場。菊池農蚕高校(熊本)出、48年熊本生まれ。

TD

テクニカルデレゲートの英文略称、略記。

たすき掛け

2つ以上のグループから勝ち進んだ複数のチームが、次の段階で別のグループの勝者と対戦する組み合わせ。クロス方式。

チームハンドボール

Team Handball。カナダ、アメリカでのハンドボールの名称。両国ではハンドボールという名の個人競技(「ウォールハンドボール」)が行なわれているため。

チームマネージャー

クラブ内での競技(チーム)担当管理者を指す。日本での「監督」を指すニュアンスに用いられることもある。

チーム責任者

チームは競技中、必ず1人の「責任者」をチーム役員(=後掲)のなかから指名することが義務づけられている。「責任者」だけがスコアラータイムキーパー、場合によってはレフェリーと話をすることができる。

チームタイムアウト

各チームが競技時間のなかで、前半2回と後半1回ずつのほか、後半25分以降1回、各1分間、最多で3回取れる。作戦の指示や徹底、試合の流れを変化させるなどの狙いがある。後半のみ3回は取れない。

チームワーク team work

チームとしての連携による行動。メンバー(チーム)が共同して1つの目的に向かい作業すること。

チーム役員

@競技中、各チームは4人までの「役員」を置くことができる。そのうちの1人が「チーム責任者」となる。通常、日本での4人は監督コーチ、ドクター、マネジャーとなるケースが多い。競技の途中での交代は認められない。
A海外遠征などで編成される選手団の役員。団長、渉外など上記のチーム役員を含め6人程度。

テクニカルデレゲート technical delegate

国際大会や公式試合で主催者が競技の運行を総合的に管理するため指名する役員。国際ハンドボール連盟の現行規定では1試合につき2人を指名するとしている。日本ハンドボール協会では00年からマッチバイザー制を導入し、そのもとにテクニカルデレゲート2人、タイムキーパースコアラー、補助員各1人を配すとしている。英文略称、略記はTD

天皇杯得点

国民体育大会の冬・夏+秋季大会の男女総合順位に与えられる得点。48年に制定され得点の算出方法は数回改正されているが、その順位争いが全国都道府県対抗制を支えている。64年の新潟大会以降、夏・秋季大会の開催地が優勝をつづけ、強引な選手補強、組み合せの不公平などが指摘されもした。現在、組み合わせの公正感、透明感は高まっている。女子総合の順位を競うのが皇后杯得点

定期戦

チーム同士が親善、交歓などの目的で、毎年申し合わせた時期に対戦する試合。OB、OGによるカードも組みこまれることも多い。大学同士ではすでに50年以上の球史を刻む対戦も多い。

定年

組織運営を刷新する目的で規則により退職、退任するように定められた年齢。日本ハンドボール協会は会長、副会長、専務理事を含め理事は70才、監事は原則として70才(いずれも就任時)としている。公認審判員は満50才の誕生日を迎えた年度の3月31日がそのライン。国際公認審判員も50才が定年。

テレビジョン放送

現代のスポーツイベントで最重要施策の1つ。ハンドボールの普及と同時に、主催者、主管者には契約される放送権料を財源として見込むケースが多い。日本における中継は56年12月大阪での第3回全日本室内総合選手権男子決勝(全芝浦工業大学−全日本体育大学)をNHKが京阪神地区で行なったのが最初。全国中継は58年2月東京でNHKによる第17回東西対抗が初。

テラモ市(イタリア) Teramo

イタリア南部の都市。73年から始めたジュニア、ユースの「インテルムニアカップ」が国際的な反響を呼び、現在では毎年、各国から500近いチームが参加する名物トーナメントになった。全日本女子ジュニアが82年から87年までと95、97年に参加。83年と97年に優勝。

テストイベント

オリンピックや世界選手権の開催国、開催地が本番に備えて運営の予行をするために開く大会。オリンピックでは「プレ・オリンピック」と通称されるが、国際オリンピック委員会は、この名称の使用を認めていない。

テストマッチ

代表チーム(ナショナルチーム)が、参加を予定する大会を前に、戦力のチェックなどのために行う国際試合。

手渡しパス

横浜商工高校(神奈川、現・横浜創学館高校)が考案したパスの方法。空間を通さず選手の手から手へ直接ボールを渡し合うプレー。

スリーメンクロス・パス threemen cross-pass

3人が1組となって、そのうちの1人が必ずボールに対してカットインの動きをとる方法。「クリスクロス(十文字、十字形)パス」とも呼ばれる。

スリーイヤーズ・ルール three years rule

ある国の代表選手として公式国際試合に出場した最後の試合から満3年経たなければほかの国に移って国籍取得してもその国の代表選手として活動できないことを定めたルール。

スロー throw

投げる、ほうる。

スローイン

サイドラインからボールを出してしまったチームの相手側にその地点で与えられるスロー。

スローオフ(スローオン)

前・後半のスタート、得点されたあと競技再開のため、センターラインから行うスロー。スローする選手はボールを手から離すまでどちらかの足をセンターライン上に置いて立っていなければならない。笛の合図から3秒以内にどの方向にでもスローできる。入場券、ポスター、プログラムなどに試合開始時刻を「スローオフ」と表記する場合もある。英文の略称、略記はT.O。

タイム

@時間。
A競技の休止、中断(=タイムアウトに同じ)。

タイムキーパー time keeper

競技時間と選手の入退場を管理する役員。

タイムアウト

レフェリーが競技時間を中断すること。7mスローの判定時、不正交代の時、退場失格追放などの判定時、チームタイムアウトの時などのほかコートの整備(清掃)でも時計は止められる。

タイムアップ

競技時間が終了すること。

タイトル title

選手権試合(大会)。その試合(大会)で優勝し獲得した称号。

TK

タイムキーパーの英文略称、略記。

飛びこみシュート

ゴールエリア上の空間にジャンプして飛びこみながら放つシュート。プロンジョンシュート。自身でボールを持ち踏み切る場合と空中でパスを受けスカイプレーにつなげる場合が代表的。

特任副会長(役員)

日本協会が規定(寄付行為)外に委嘱する副会長。その人の専門分野、得意分野をハンドボール界事業に活かすため07年から設けられている。14年2月現在5氏がこの任にある。

栃木県協会

47年4月設立。旧制中学を中心に普及し、50年の第1回全日本高校選手権男子で足利高校が初代王者となり注目された。そのあと高校女子、一般男女で有力チームがつづきトップゾーンの定評を得た。

都道府県協会

日本ハンドボール協会の基盤を形成する組織。第2次大戦後、46年から50年までの5年間に32協会が相次いで誕生したが、47協会が勢揃いするまでにはそのあと16年を要した。戦前は、38年に岡山県協会が早々と設立され、さらに20府県での講習会をきっかけとして協会発足への機運を高めたが、戦火が激しくなり、戦後に持ちこすケースが多かった。「PF」と呼ばれることが多くなっている。

東北学生リーグ

73年発足。それ以前に情熱的な前史がある。53年に仙台市内の4大学が「仙台学生選手権」を組織し、他県の大学にも参加を呼びかけて5県8大学による「東北大学大会」へと拡張した。さらに56年北海道の2大学が加わって「東北・北海道学生リーグ」(=後掲)が発足。そのあと73年秋、北海道勢が分離し、「東北学生リーグ」となり今日に至っている。10年春、秋田大学が宿願の初優勝を飾った。78年春から女子もスタートした。
◆1973年秋から2013年秋までの優勝校と回数
【男子】東北学院大30回(41回)、東北福祉大19回、富士大11回、仙台大9回(11回)、福島大5回(7回)、岩手大4回(6回)、秋田大3回、東北大1回(8回)。※()内は「東北・北海道学生リーグ」(後掲)の優勝回数を含めた通算回数。【女子】東北福祉大42回、岩手大学18回、富士大10回、仙台大1回。【2013年秋季の加盟校】男子1部6校、2部6校、3部8校。女子7校。

東北・北海道学生リーグ

56年から73年春季まで東北・北海道勢合体で開かれていた公式戦。66年の第11回までは秋季を「選手権」と呼称して年1回の開催、67年から73年までは春・秋リーグを行なった。73年秋、両ブロックの分立で発展的解消となった。女子は実施されなかった。
◆1956年から72年春までの優勝校と回数(男子のみ)
東北学院大11回、東北大7回、福島大(福島大学芸学部)2回、岩手大2回、仙台大2回。

東海学生リーグ

53年秋に発足。その年に始まった東海国公立大学体育大会に参加した各大学が中心となって単一の連盟(リーグ)を設立。国公立大学が主軸となって誕生したのはこのためである。私学の本格的初加盟は59年の中京大学となる。同大学はいきなり優勝を飾って新時代の幕を開けた。初期の活動を支えたのは名古屋大学、名古屋工業大学、愛知学芸大学(現・愛知教育大学)で、滋賀大学、信州大学(長野)など日本ハンドボール協会のブロック枠と異なる加盟校も集った(注・信州大学は現在は北信越学生リーグ所属)。戦況は中京大学が60年代、70年代前半を圧倒したあと75年から名城大学が台頭、中京大との2強時代を招き、さらに中部工業大学−中部大学が頭角を現わし、激戦の様相を強めている。他地域で見られなかった室内の東海学生選手権を58年から63年まで開いた。女子リーグは65年秋季から。
◆1953年秋から2013年秋までの優勝校と回数
【男子】中京大52回、中部大31回(中部工業大2回を含む)、名城大23回、名古屋大6回、名古屋工業大5回、愛知学芸大4回、大同大2回。【女子】至学館大(元・中京女子大)52回、中京大41回、愛知教育大2回、桜花学園大2回、名古屋文理大1回。【2013年秋の加盟校】男子1部10校、2部8校、3部11校。女子1部8校、2部9校。

徳島県協会

66年4月設立。1ヵ月後に日本ハンドボール協会に47番目の都道府県協会として加盟、全国網が完成した。中心となった高校は球界の初期に似て各スポーツからの混成でチームを結成していた。70年代に入って社会人クラブも生まれ着実な足どりを見せている。

得失点差

リーグ総当り)戦の最終順位決定で、2チーム以上が同勝ち点となった場合に適用される。大会によって・全試合の総得点と総失点の差、・同勝ち点チーム間の総得点と総失点の差など異なる。25パーセントルールによる算出の方式も80年代までは多かった。ゴールディファレンスに同じ。

得点

対戦相手より多くあげることによって競技が決着するハンドボールの最大の目的。ボール全体が一瞬でもゴールラインを完全に通過すれば認められ1点が与えられる(注・ビーチ競技の得点には特別ルールがある)。シュートの直前や最中にシュートした選手あるいはその味方の選手がルールに違反していないことが条件となる。ゴールに同じ。公式の国際試合では81年8月ソ連(当時、男子)がアフガニスタンから奪った86点(失点2)が1チームによる1試合の世界最多とされる。国内ではスポーツイベントハンドボール編集部に97年6月、高校女子で75点(失点2)という記録が寄せられている。

得点王

大会や試合を通算してもっとも多くの得点をあげた選手。フィールドゴール7mスロー得点の合計数が基準になるがフィールドゴール数だけを対象とする場合もある。まれに、女子選手を「得点女王」と呼ぶことがある。英語ではbest scorer、 leadinggetter など。

得点率

得点数をシュート数で除したもの。シュート率と同意。日本ハンドボールリーグではフィールドゴール数の上位選手による得点率で「最優秀シュート率賞」を設けている。ヨーロッパでは全得点を出場試合数で除した数字を指すことが多い(1試合平均得点数)。

東京学生リーグ

関東学生リーグの前身。38年2月、日本ハンドボール協会設立とともに組織された「全日本学生ハンドボール(当時は送球)競技連盟」によって文理科大学慶応義塾大学明治大学、日本体育会体操学校、早稲田大学の5校が同年5月、初大会(春季リーグ)を開いた。そのあと法政大学の加盟を得て43年春季まで毎年、春秋のリーグ戦を展開、草創期の日本ハンドボール界を代表する活動を示した。発足当初、体操学校のほか、青山師範学校(東京)、埼玉師範学校などに参加の動きがあり「大学リーグ」とせず「学生リーグ」を呼称とした。46年復活時に「関東学生リーグ」と改称、この伝統を継いで現在に至っている。女子は組織されなかった。
なお、56年秋季に関東学生リーグを脱退した4大学が1シーズンだけ「東京学生リーグ」を名乗った。この動きは54年春季から55年春季までの「東京6大学リーグ」、57年春季から58年春季までの「東京5大学リーグ」の動きと無関係ではなく、事業、人事などをめぐる関東学生ハンドボール界の混迷を示すものであった。

東京女子体育大学

62年4月開学と同時にハンドボール活動がスタート、63年秋季から関東学生リーグに参加。73年春季の初優勝で学生界のトップチームとして定着。86年の第38回全日本総合ハンドボール選手権で実業団をなぎ倒し学生チームとして初制覇した。13年秋までに全日本学生選手権16回、関東学生リーグ35回の優勝を飾り、国際レベルの選手も多く育っている。
前身は1902年4月創立の東京女子体操学校で同年すぐに東京女子体操音楽学校と改名、「音体」と呼ばれた。44年東京女子体育専門学校と変わり、女子に限られた戦時下のハンドボール活動を日本体育専門学校女子部(=日本体育大学)、埼玉女子師範学校(現・埼玉大学)などとともに支えている。

東京高等師範学校

1872年東京に設置された「師範学校」が前身。同校は日本における近代スポーツの紹介、普及、振興に大きな力を示した。1873年東京師範学校、1886年高等師範学校、1912年に東京高等師範学校と校名が変った。その10年後の1922年、同校教官・大谷武一が日本に初めて「ハンドボール」を紹介、1926年文部省(当時)の改正学校体操教授要目に加える大きな力を示した。1929年新設の文理科大学が設置されたことで、ハンドボールなど「高師」の総ての伝統は同校に受け継がれ、さらに、東京教育大学(=後掲)−筑波大学へと発展した。

東京教育大学

49年、文理科大学など4校を包括して設立され、同年秋の関東学生リーグからハンドボールルーツ校の歴史を引き継いだ。指導者、研究者を数多く輩出し、68年から女子チームを発足させた。78年から筑波大学となる。

東京オリンピック1940

第12回オリンピックとして40年9月21日から10月6日まで東京市(当時)で行なわれる予定で準備が進められたが、日中戦争が激しさを増し日本政府は38年7月15日「返上」を決め“幻の大会”となった。ハンドボールは曲折はあったものの38年1月、この大会での実施(男子11人制)が決定し、会場は世田谷区の駒沢に建設を計画された「紀元2600年記念総合競技場」が有力だった。こうした動きに応じるため、38年2月2日、日本ハンドボール(当時は送球)協会が設立された。さらに同年3月15日から5日間、横浜市日吉の慶応義塾大学グランドに、初の候補選手29人を招集、史上特筆されるべき強化合宿を行った。「返上」の“悲劇”はその118日後にもたらされた。長野県松本市で予定した2回目の強化合宿直前といわれる。
【東京オリンピック第1次合宿強化合宿(1938年3月)参加者名簿】酒井将(コーチ、日本送球協会)、重田光雄(コーチ、日本体育会体操学校)、阿部二郎(コーチ、文理科大学)入江信太郎、中島伝平、崔東淳、南利喜松、三宅義信、金鐘元(以上日本体育会体操学校)、外山准二、樋口兼一、後藤真彦、長妻喜重、横山健一、安藤絋雄(以上慶應義塾大学)、庄司房夫、山口時次、山田栄二(以上明治大学)、大須賀伝芳、阿部二郎、伊東明(以上文理科大学)、近藤憲弘、宋丙堂(以上、早稲田大学)、尾上朝権(東京YMCAクラブ)、竹村、安井、中川(以上3氏フルネームと所属不明)。

【お願い】この合宿には30人が参加し写真も現存していますが、上記26名以外の4名の姓名などが不明です。ご存知の方はこちらまでご一報ください。

東京オリンピック1960計画

1952年5月、東京都が60年の夏季オリンピック招致の意向を示し、54年9月に正式に立候補、55年6月、国際オリンピック委員会総会の投票で敗れ、実現はならなかった。
日本のハンドボールは52年9月、国際ハンドボール連盟への加盟(復帰)が正式に認められ、同年7月のヘルシンキ(フィンランド)オリンピックでデモンストレーション競技(男子11人制・スウェーデン−デンマーク)が行なわれていたことから参加の期待が高まり、会場に駒沢が計画されるなどしたが、同年12月の国内競技団体会議で実施プログラム案に加えられなかった。国際ハンドボール連盟への復帰がもう少し早ければと残念がる声が聞かれた。60年の夏季オリンピックはローマ(イタリア)で開かれ、ハンドボールの実施は見送られている。

東京オリンピック1964

日本スポーツ界悲願の大会は64年10月10日から24日まで20競技にわたって行なわれた。ハンドボール(男子11人制)は、早々と「駒沢オリンピック公園」が会場に内定し、球界の雰囲気も盛り上がっていたが、内外の大会規模縮少のあおりをうけて60年12月22日、実施競技から削除という悲運に見舞われた。36年のベルリンオリンピック以来の“復活”に沸いていた関係者の落たんと憤りは筆舌につくしがたいものがあった。日本体育協会選手強化対策本部委員に荒川清美が指名されていたが、強化選手の選考などは着手されていなかった。

東京オリンピック2016

東京都が2016年に夏季オリンピックを計画。会期を16年8月10日から28日までとし、ハンドボール(男女)など28競技(以内)を実施。ハンドボール会場は全日程を国立代々木競技場第一体育館(観客席数10000)で、08年6月正式立候補都市となったが、09年10月2日コペンハーゲン(デンマーク)で開かれた国際オリンピック委員会総会で投票の末不成功に終わった。会場は当初、1次リーグは東京ビッグサイトのホール(観客席6000)を利用する案が検討されていた。

東京オリンピック2020

日本ハンドボール界宿願の東京オリンピックが2020年7月24日から8月9日まで開かれ、引き続き8月25日から9月6日までパラリンピックが行われる。
2013年9月7日ブエノスアイレス(アルゼンチン)での第125次国際オリンピック委員会総会の投票で東京はイスタンブール(トルコ)を決選投票で60−36と制し決まった。イスタンブールはマドリード(スペイン)を抑え東京と争った。
1964年東京での第18回夏季大会では、ハンドボールは男子11人制が行なわれるとされながら規模縮小で削減され(=前掲)、関係者、愛好者は56年待ちつづけた。競技は男女全試合が7月25日から8月9日まで東京都渋谷区の国立代々木競技場で行なわれる。日本ハンドボール界あげて強化・運営に取り組むことになる。
東京都は「2016年の招致」が失敗した2ヵ月後の09年12月、石原慎太郎知事が都議会で「2020年招致に“再挑戦”」を所信表明、11年招致委員会が設立され、12年2月、国際オリンピック委員会へ大会概要計画書を提出。13年2月12日、国際オリンピック委員会は理事会で2020、24年の夏季オリンピック実施競技の選定を行ないハンドボール(男女)は順調に中核競技として決まった。これで開催地が「東京」になれば「夢」の実現が確実となった。
内外メディアの分析は、当初はイスタンブール有利とされ、そのあとマドリードが浮上。東京優位はなかなか伝えられなかったが、ハンドボール界をはじめ国内スポーツ界の懸命な行動で投票1ヵ月前ようやく流れが向かってきた。
2014年3月、組織委員会が発足し、日本オリンピック委員会は早々と13年11月、目標を実施競技(28)すべてで8位以内の入賞、金メダル数は参加国のうち3位と打ち出している。パラリンピックにハンドボールは含まれていない。
  ◇       ◇
2020年の第32回夏季オリンピックには、当初、東京都のほか、09年10月広島市が長崎市との「共同開催」での立候補を計画。長崎市は10年1月、辞退を示し、広島市は「共同」を断念、独自での開催を検討したが、11年5月、日本オリンピック委員会に「撤退」を伝えた。
広島市のプランでは会期は20年8月7日から23日まで、ハンドボール(男女)は市内佐伯区に仮設される「五日市地区埋立地特設アリーナ」(広島湾ゾーン)を会場にするとしていた。

東京体育館

57年、東京・千駄ヶ谷に完成、室内スポーツの“中心地”として国際的な発展に大きな存在となった。ハンドボールは58年2月の日本ハンドボール協会創立20周年記念試合(東西対抗)で初使用、71年から85年までは全日本総合選手権会場として定着した。86年12月から大規模な改築工事が行われ90年春完成、メインアリーナは地上3階、地下2階、フロアは46m×77m、固定席6000人を持つ。ハンドボールの新使用は90年の「ジャパンカップ」。

東京都協会(東京都連盟)

47年4月設立。戦前に日本ハンドボール協会の事務局を兼ね38年から43年末まで「同協会東京支部」として活動したが、独自の組織とは言えなかった。47年から約10年間の名称は「連盟」、そのあと現在の「協会」に改められた。

東京運動記者クラブ・ハンドボール分科会記者賞

89年に創設された国内で権威のある表彰の1つ。東京に本社を置く新聞、通信、放送各社のハンドボール担当記者、プロデューサー、アナウンサーなどによって構成させる「分科会」が全国視点で各年度男女各1人の選手を選出、表彰(記念品)する。関西、東海などにも同様の組織(分科会)と表彰があるが、対象が特定の地域に限られることが多い。

「投球戦」(闘球戦)

陸軍の戸山学校が10年代から採用していたといわれるボールゲーム。30年代にハンドボール(11人制)の規則を大幅に導入して考案、「闘球戦」とも呼ばれた。1チーム11人、競技場は30〜50m×15〜30m、ゴールエリアラインは6mの半円形、ゴールは高さ2m、幅4mとされた。42年の改訂で諸規則がいっそうハンドボールに近づいていた。戦後に消滅。

東南アジア競技大会

アジアにおける地域国際総合競技大会の1つ。
58年5月東京でタイを中心に東南アジア地域による連盟結成が話しあわれた。59年6月設立のあと同年12月バンコクで第1回大会が開かれ、それ以降2年にいちど行われている。ハンドボールは03年11月ベトナムでの第22回大会で男女初採用された。03年現在の加盟国はブルネイ、カンボジア、インドネシア、マレーシア、ミャンマー、東ティモール、ラオス、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナムの11ヵ国で、ハンドボールは03年(ベトナム)、07年(タイ)の2回行なわれている。英文名称はSouth East Asiangames、同略称、略記はSEA Games(シー・ゲームズ)

東南アジア選手権

07年10月タイの呼びかけでバンコクに香港、ベトナム、タイの3ヵ国(男子のみ)が集まり第1回を行なった。アジアハンドボール連盟の了解を得てのものか、第2回以降は休会が多い。

トアバル tor ball(ドイツ語)

ヘルマン・バッヒマン(ドイツ)が考案したとされる女子専用の屋外ボールゲーム。1910年代なかばまで盛んに行なわれ、近代ハンドボールの形成に大きな影響を与えた、とされる。「門球」と訳される。
40m×20mの競技場、高さ2m、幅2.5mのゴール(=tor)。4mのゴールエリアにボールを持って入ること、3秒以上ボールを持ちつづけること、相手からボールを奪うことなどは禁じられ、前方へのパスだけで競技した。このスポーツをカール・シュレンツ(ドイツ)が1919年、ボールを奪うことなど男子を含めた青少年用に創りなおし、ハンバル(=ハンドボール)を生んだ。近代ハンドボールが女子のスポーツとして考案されたというのはトアバルとの混同によるもので、正確とはいえない。

登録証

日本ハンドボール協会への登録手続きが完了された個人に発行される証明書。07年から本格導入となり、各大会の代表者会議では登録証によって資格が審査され、さらに各試合は個人を特定する。
効力は国内に限られ、国際試合では国内会場でも個人証明としてパスポートが必要となる。

トーナメント tournament

競技会、選手権大会の意だが、日本では勝ち抜き戦による試合方式を指すことが多い。本来の意味からトーナメントが総当り戦(=リーグ戦)で行なわれてもおかしくはない。

「トップス広島」

2000年4月、広島県内に本拠を置き各スポーツの国内トップゾーンで活動するチームをメンバーとして発足した新しい感覚のスポーツ運営組織。ハンドボールでは男・湧永製薬、女・広島メイプルレッズ(旧イズミ)が加わっている。組織の正式名称は「広島トップスポーツクラブネットワーク」。

登録

大会への参加や組織のメンバーに加わるための手続き。チーム、愛好者(選手)、指導員、審判員などのほか、用具関係など分野は多い。

登録金

登録(=前掲)にあたって義務づけられる料金。

鳥取県協会

52年4月設立。創立メンバーの鳥取工業高校のあとにつづくチームが生まれず活動休止となる時期もあったが、64年再結成の態勢が整い、65年4月日本ハンドボール協会に加盟、堅実な歩みを示している。

外山 准二(とやま・じゅんじ)

37年慶應義塾大学在学中、国内スポーツ関係者の要望もあって東京オリンピックに備えて学内にハンドボールチームを結成。卒業後は日本ハンドボール協会運営にたずさわった。49年から53年秋まで理事長。草創期〜苦難・復興期に尽力されたパイオニアの1人。02年86才他界。

富山県協会

48年9月設立。戦前の選手が指導者となって高校、中学に普及、国内を代表するトップゾーンの実力を備えた。中心となる氷見高校は、地域あげてのハンドボール熱の象徴となっている。06年から春の全国中学生選手権を氷見市でひらいている。

トス toss

@下から軽くボールを投げることAi試合開始前に両チームが「コート(サイド)かスローオフ(ボール)か」を選ぶため硬貨などを投げて決めること。コイントス

東西学生王座決定戦

48年、球界の復活を告げるビッグイベントとして関東、関西の秋季学生リーグの勝者同士が、隔年ごとに会場を東西に移しあって争った国内最高峰の試合。両地域の激しい対抗意識も手伝い、王座決定の名にふさわしい激戦の球史をつづった。57年の第10回から「全日本学生王座決定戦」と改称、東側は57年から関東、東北・北海道、58年から東海の代表校を加え、西側は60年から関西、中四国、66年から九州の代表校を集めて予選会が行なわれるようになった。63年以降は室内、68年の第21回を最後に幕を閉じた。女子は行なわれていない。歴代優勝校は全日本学生王座決定戦の項を参照。

東西対抗

東日本、西日本を分けてのオールスターゲーム。男子は38年に第1回が行なわれ、55年の第15回まで11人制、58年の第17回を日本ハンドボール協会創立20周年記念試合として室内(東京体育館)で行なわれたのを最後に休会。女子は47年を第1回に、50年、51年1月、51年11月の3回開かれて休会。全日本代表チームが編成されなかった当時は、この試合に選抜されることが国内を代表する選手としての折り紙をつけられるものだった。

東西学生選抜対抗

48年を第1回に81年まで31回にわたって開かれ、現在は休会。63年から7人制。女子は68年のオープンを経て69年から行なわれた。78年からジュニア、79年からジュニア女子もあった。

東西高校対抗

48年の旧制中学対抗(男女)を第1回に新制高校となった51年まで行なわれたあと終会。東、西それぞれ地域選手権を開きその代表校が対戦した。全日本高校選手権の発足で発展的解消。
〔男子〕
・1948年 東京重機工業5−4倉敷工業(岡山)
・1949年 天王寺(大阪)5−3鎌倉(神奈川)
・1950年 天王寺6−2世田谷工業(東京)
・1951年1月 一宮(愛知)3−1天王寺
・1951年11月 桜台(愛知)4−1岡山津山成美
〔女子〕
・1948年 倉敷高女(岡山)7−1東京第一師範予科
・1949年 倉敷(岡山)2−1足利女(栃木)
・1950年 寝屋川(大阪)4−1一宮(愛知)
・1951年1月 寝屋川8−2涌谷(宮城)
・1951年11月 静岡城北5−4落合(岡山)
〜男女ともすべて11人制〜

トレイルプレー trail play

ボールをパスした選手が、そのあとを追うように走りこむこと。

トレーナー trainer

@指導者。外国のチームにおける日本での「監督」A日本では選手の体調などを整える役目の人を指すことが多いBユニホームなどの上に着るゆったりとした上着。

トレーニング

訓練、練習。

トランスファーマーケット transfer market

ヨーロッパでは選手の契約の期限が1月末と5月〜6月末で切れるケースが多い。そのあとチーム(クラブ)の移籍を希望する選手や次シーズンの契約を打ち切られた選手のリストを交換しあう場を指す。ハンドボールではクラブ関係者が集まって実際に「マーケット(市)」(=情報・交渉会議)が開かれることはまだない。

トライアングルパス triangle pass

「三角パス」。選手の立つ3点を結ぶパス。3人の選手が動きながらのプレーも多い。

トライアングル・トーナメント 

3チームが参加して互いに対戦する大会。3ヵ国対抗や、日本では61年から毎年行なわれている「オール早慶明3大学定期戦」など。

トリッピング triping

相手をトリップ(つまづかせる)させたり引っかけたりするプレー。

トリプルクラウン triple crown

3つのビッグタイトルを独占しその栄冠に輝くこと。4つ以上のイベントに参加して3大会を制した場合は、一般的には適用しない。

トライアウト try out

適性検査の意から転じて、有能な選手を発掘するためクラブなどが、公募した希望者を集めて実技テスト、体力テストなどを行なうこと。アメリカ・チームハンドボール連盟は「あらゆる人にチャンスが」のメッセージで、代表チーム(男女)のための全国的なトライアウトを展開するのを常としてきた。

追放

競技時間内に選手が、コートの内外を問わず暴力行為を起こした時に課せられる罰則。その選手はコート、交代地域から去らなければならない(チームに関与することができない)。そのチームは競技終了までコート上の選手を1人減らして試合をつづける。レフェリーは追放された選手に関する報告書を上部組織へ提出、さらに罰則が所属チームなどに及ぶことがある。

TUE

ドーピング検査で治療目的のため使用している薬品をあらかじめ申請し、適用措置をとること。Therapeutic Use Exemptionの略。

筑波大学(茨城)

日本ハンドボール伝来期の東京高等師範学校、草創期の文理科大学、復興期の東京教育大学の伝統を継ぐ名門。78年、校名変更とともに全国から男女の逸材を集め、学生界をリードする立ち場が強まった。14年までに全日本学生選手権で男子が3回、女子が11回、関東学生リーグ(13年秋季終了時)で男子が18回、女子が27回優勝を飾っている(いずれも前身時代の記録を含む)。国内を代表する競技者のほか、指導者、研究者、組織の運営者の育成にも実績を誇る。

ツルチーナ Shinaida Turtschina

シナイダ・ツルチーナ。国際ハンドボール連盟が2000年春に選出した「20世紀世界最優秀女子選手」。13才から旧ソ連の強豪「スパルターク・キエフ」でハンドボールに親しみ、すぐに頭角を現し、彼女の成長と「キエフ」「ソ連女子代表」の躍進が軌を一にした。「キエフ」のヨーロッパチャンピオンズリーグ優勝13回、「ソ連」のモントリオール、ソウルオリンピック金メダル、82、86年の世界選手権連覇はツルチーナの巧打、展開力、沈着なリーダーシップがなければ成らなかった。
夫のイゴール・ツルチン(故人)が、両チームの監督をつとめていたことも、彼女の球歴をいっそう華麗にする。ソウル・オリンピック後に引退、現在はウクライナハンドボール協会の会長。87年ソ連代表チームの一員として、01年ワールドゲームズ・ビーチ競技のウクライナ団長として来日している。旧姓ストーリチェンコ、46年キエフ生まれ。

ターン

進んでいる方向を変える(転換)すること。

ターンオーバー turn over

競技の流れの中でボールが相手チームに渡って攻守の立場が“逆転”すること。一般的に反則で相手ボールとなった場合は言わない。

TV

@テレビジョン。
Aドイツ語圏でTurn-verein(トゥルン・フェライン。体操連盟、体操クラブ)の略。ドイツのスポーツクラブの多くは町の体操クラブを母体にして発展したことを示す。英語圏のSC(スポーツクラブ)やFC(フットボールクラブ)とほぼ同じ意味を持つ。