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HANDBALL A to Z
作成・杉山茂&スポーツイベントハンドボール編集部 2014.04.15Version
これまでハンドボール用語といえば規則(ルール)、技術・戦術用語が主でした。ハンドボールファンの拡大、内外情報の多彩化などで、用語は極めて多範囲となり、新たな解説が求められています。この企画はそうしたニーズに応えるものでスポーツイベント・ハンドボール誌(月刊)を読んでいただく場合の手引きともなります。外来語が多いためアルファベット順に日本語用語(ローマ字読み)と史上特筆すべき業績を残した内外のチーム、人物も加えました。年数は西暦、項目表記は英語系のみとしてあります。競技規則用語は「日本ハンドボール協会競技規則平成25年版(2013.12.16発行)」を参考にしています。1~2年ごとに追加、補充、修整など改訂を重ねていく予定です。個人の敬称略。
〈禁無断使用転載〉

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YAC

ヤングエイジ・カテゴリー、Young Age Categoryの略記、略称。21世紀に入ってヨーロッパハンドボール界が重点とする事業で、18才以下の愛好者、競技者のための交流試合や講習会などを開催、次代の愛好者、競技者の育成を目的とする。
ヨーロッパ各国オリンピック委員会は91年から2~4年おきにハンドボールを含む18才以下の国際総合競技大会「ヨーロッパ・オリンピックユースフェスティバル」(略称EOYF)を実施しており、この動きに呼応して国際オリンピック委員会は10年から4年おきにハンドボールを含む「ユース・オリンピックゲームズ」を開く。

薬物ドーピング

筋肉増強剤、興奮剤、減量のための利尿剤などドーピングのために用いられる薬物。
近年、動脈硬化などマイナス作用のある筋肉増強剤をめぐる問題が多い。

役員

組織、団体を代表し運営の責任を負う“地位”にある者。公益財団法人日本ハンドボール協会は定款で会長1名、副会長3名以内、専務理事1名を含む理事20名以上28名以内、監事3名以内と規定している。任期は2年。このほか評議員20名以上30名以内。

山田永子

やまだ・えいこ。日本オリンピック委員会スポーツ指導者在外研修員でハンドボール界初めての女性として2004年8月から2年間ノルウェーへ派遣された。競技者(筑波大学―オムロン)の実績も豊かで世界選手権、アジア大会代表となり、00年第4回世界女子学生選手権では得点王。研修のあとノルウェーに残り同国リーグ強豪のバケラゲットSC・オスロでプレー。筑波大学大学院終了。11年から国際ハンドボール連盟「学校におけるハンドボール」プロジェクトの一員として活動。筑波大学女子チーム監督。愛知生まれ。

ヤマ型

勝ち抜き戦(トーナメント方式)の組み合わせ表の俗称。

山形県協会

1955年4月設立。高校分野が活発に動き、その流れを汲む形で県協会も発展。それだけに92年の地元国体成年女子での優勝は、内外を驚かすに充分だった。

山口県協会

1948年5月設立。山口市を中心に中学(旧制)などでの前史を受け、高校界が軸となって充実、さらに社会人層へと伸びた。山口大学による西部、中四国学生界における活動も特筆される。

山梨県協会

1947年12月設立。山梨女子師範がルーツとなる珍しいスタートを切り、50年前半まで国内女子界に足跡を残した。そのあと、高校、中学を中心に着実な成長を示している。

横浜カントリーアスレチッククラブ

1868年横浜在住のイギリス人が組織した横浜クリケットクラブを前身に1884年の横浜クリケット・アンド・アスレティッククラブへの改称を経て、1911年、総合スポーツクラブとなり、現在の名称となった。英文略称、略記は「YC&AC」。30年代後半、ドイツ人のメンバーを中心にハンドボールが親しまれるようになり、在京の学生チームを招いて交流を行なった。学生側も“外国勢”との対戦に刺激を受け、積極的に対戦している。神戸レガッタ・アンド・アスレチッククラブ(英文略称KR&AC)も同じ活動を展開、両クラブとも、球界草創期に特異な存在となっている。神戸では一時期、女子チームも活動した。両クラブの選抜(混成)チームが、40年の「紀元2600年奉祝東亜競技大会」の関東、関西両大会に参加し日本側(日本体育会体操学校)と対戦、42年の関西ハンドボール協会結成記念行事として在日ドイツ人の東西対抗が行なわれた。43年12月東京で開かれた「枢軸国交歓球技大会」では在日ドイツ人選抜が全日本選抜と交歓している。

イエローカード

レフェリーによって警告を示される黄色のカード。カードの大きさは12㎝×9㎝とされる。レッドカードとともに「ペナルティーカード」と呼ばれる。

YOG

Youth olympic Gameの略称、略字。

予告合図

パッシブプレー(攻撃側が積極的に得点を狙おうとしない状況)のきざしをレフェリーが察知した時に示す合図。攻撃が完了するまで有効とされる。合図はレフェリーが一方の腕を曲げ上方に向けるジェスチャー(gesture=身ぶり)による。

4:2ディフェンス

標準的な防御(ディフェンス)システムの1つ。6人のCPのうち、あらかじめ2人がフリースローラインまで張り出し、相手のロングシューター2人に対して間合いを詰め、その強打を封じる。

4分の1ファイナル

1/4ファイナル。勝ち抜き戦でベストエイトによる4試合を示す。準々決勝に同じ。

米倉功(故人)

日本ハンドボール協会第7代会長。84~96年全日本学生ハンドボール連盟会長のあと、95年から03年まで4期8年をつとめて勇退。03年から名誉会長。1922年5月生まれ。2015年93才で他界。

「45秒ルール」

自軍のボール(マイボール)になってから45秒以内にシュートを行なわなければならないとする攻撃促進案。1970年から旧ソ連が主張しつづけ、80年の国際ハンドボール連盟総会で、いちどは採択にこぎつけたといわれながら、成案化は見送られた。積極的な攻撃やスピードに欠ける展開を規制する方向は支持されたが、70年代の国際大会の平均シュート時間が40秒以内であった資料や、バスケットボール規則に似ることへの反発もあり、理念はパッシブプレーの規則化に受け継がれている。

「45度」

攻撃陣形で原則としてフリースローラインより後方でゴールに対して45度の角度を持つ左右の両ポジションをいう。ロングシュートを得意とし決定力のある長身の強打者が多い。このため、エースポジションともいわれる。日本ではフリースローライン後方での行動から「フローター」と呼ぶ。英文では右45度はライトバック、左45度はレフトバック、両者の中間でゲームメークするセンターをミドルバックと表記することが多い。

「4冠王」

グレードの高い4つの大会に出場し、すべて優勝を飾ったチームへの敬称。日本では全日本総合選手権(新・日本選手権)日本ハンドボールリーグに参加するチームにそのチャンスがあり、全日本社会人選手権(旧・全日本実業団選手権)国民体育大会成年の部を加えて対象とするケースが多い。グランドスラムと同意。

尹京信

ユン・キュンシン。韓国が生んだ現代世界最高のアタッカー(左腕、203㎝)。1992年バルセロナオリンピックに19才でデビュー、注目され、93年世界選手権を経て95年世界選手権得点王、ヨーロッパの専門家たちが舌をまく破壊力を示した。韓国・慶煕大学の卒業を待つように97年ドイツの名門グンマースバッハが契約、ドイツリーグを代表するスタープレーヤーに躍り上がった。
97年世界選手権で2大会連続得点王の偉業を遂げ、04年アテネで宿願のオリンピック得点王。ドイツリーグでは98~2001年の4シーズン連続を含む通算7回の得点王。06年からハンブルグへ移籍、08年5月、13シーズンにわたるドイツでの活動を終わり帰国、韓国リーグの強豪「斗山」に加わった。07年5月ドイツリーグ個人通算得点2684の新記録をマーク(最終記録は2905点)。このほか世界オールスター選出3回。01年世界最優秀選手など数多くの栄誉を得ている。15年2月から韓国男子代表監督73年7月韓国生まれ。

ヤングレフェリー・プロジェクト

2006年度から日本ハンドボール協会が“若いレフェリー”養成のため設けたプロジェクト。
公認審判員の資格の取得できる年令を16才以上にするとともに14、15才による「レフェリー」も育成するというもの。

陽性

ドーピング検査の結果、違反の反応が現われたこと。違反が確定した場合の制裁は、個人に対してその内容によって最長6ヵ月までとする第1段階的な資格はく奪から、標準的な2年間のほか、生涯にわたる永久追放まで多様である。国際ハンドボール連盟は違反者には即時、その大会の出場停止とし、確定後にペナルティを課し、そのチームに対しては試合を没収(スコアは0-10の負け)する(=1995年3月から施行)。

ユース

国際的にはシニア(成年)、ジュニアにつづく第3のカテゴリー。各国それぞれの年令設定がみられたが、国際ハンドボール連盟は2005年からの世界ユース選手権開始にあたって、男子18才以下、女子は17才以下と規定した。

ユース・オリンピックゲームズ

国際オリンピック委員会が2010年から創設した14~18才の「オリンピック」。ハンドボール(男女各6ヵ国)など28競技(夏季大会)が第1回はシンガポールで行なわれ、14年の第2回は中国(南京)で開かれた。18年の第3回アルゼンチン大会(ブエノスアイレス)からインドアに代わってビーチ競技が採用される。英文略称略記は「YOG」。
アジアユースゲームズでは09年(シンガポール)にはハンドボールは含まれていなかったが、13年(南京)から実施されている。

ユーゴスラビア(旧国家)

1918年に独立、44年社会主義連邦人民共和国建国、スポーツ振興にも力を入れはじめた。ハンドボール界は50年国際ハンドボール連盟加盟と同時に、国家支援による普及と世界をリードする理論を展開、戦術の開発、男女頂点強化の実績づくりが進められ、91年国家が解体するまで一時代を築いた。「ユーゴ戦法」、「ユーゴ」と名付けられたプレーも多い。
国内活況の背景となったのは多民族、多国家による“対抗意識”で、全国リーグの質量がトップレベルの充実へとつながった。
60年代から世界最上位への道を一気に拡げ、70年男子が世界選手権3位、71年女子が同優勝を飾り、72年ミュンヘンオリンピック(男子)における金メダル獲得で“世界最強国”の定評を揺るぎないものとした。90年までに男子はオリンピック2回、世界選手権1回、女子はオリンピック、世界選手権各1回の優勝を飾っている。73、84、87年の3回男子代表チームが、90年女子代表が来日、女子の名手カティツァ・イレシュ、ビセルカ・ビスニッチの両選手が日本リーグ・オムロンで活動した。
◇      ◇     ◇
ユーゴスラビアの新国家は92年4月「ユーゴスラビア連邦共和国」として創設され、同年のバルセロナ・オリンピックには参加が認められなかったが、世界選手権は男子が97年“初出場”。99年(3位)、2001年(3位)、03年の4回、女子は01年(3位)に出場。
このあと、02年3月に連邦を組んでいたセルビア共和国、モンテネグロ共和国が国家を改編し、新国家連合の再構築に合意。国家名を「セルビア・モンテネグロ」とし、03年8月の第14回世界女子ジュニア選手権(マケドニア)に“初登場”した。そのあと06年5月モンテネグロが再び独立、国際およびヨーロッパ・ハンドボール連盟はセルビアとともに両国をメンバー(加盟国)とした。旧・コソボ自治州もコソボ共和国となって活動を続け、13年両連盟に加わった。


(注)「ヨーロッパ」に関する項目は「E」の項参照。