永井 松三(故人)

40年4月から42年3月まで第2代日本ハンドボール協会会長をつとめた。外交官。40年の東京オリンピック組織委員会事務総長など日本スポーツ界の“国際的な顔”として活躍。第2次大戦後は国際オリンピック委員会委員をつとめハンドボールの国際復帰に尽力された。57年4月80才で他界。

長野県協会

49年2月設立。県高校体育連盟発足を機に組織化が進んだが、道のりは険しく初期はチームの集散を繰り返した。高校教員の情熱を支えに、78年国体の開催(総合優勝)で、その後の展望を開いた。

長崎県協会

63年4月設立。69年の国体に備えての発足で指導者不足に悩みながらも着実に発展、70年代は高校界の拡充をベースに有力選手の輩出も見られるようになった。同年代後半、一般クラブの活躍も注目を集めた。

「流し」

愛好者の間で交わされるシュートの狙いかた。右利きの選手が相手GKの左側面を、左利きはその逆をターゲットとすること。対比は「引っかけ」

「88年名古屋オリンピック」

77年8月、愛知県知事の発言がきっかけとなり構想を進め、名古屋市を中心とする広域開催の方向を打ち出した。79年6月中部圏知事会議で了承をうけ、同10月日本オリンピック委員会も承認。81年3月、国際オリンピック委員会へ手続き、活発な招致運動を展開したが同9月の国際オリンピック委員会総会の投票で韓国の首都・ソウルに27−52で敗れた。「名古屋オリンピック」のハンドボール(男女室内)は計画書では88年10月8〜23日の会期の間に名古屋市総合体育館と三重の四日市市緑地公園体育館、鈴鹿市体育館を会場とすることになっていた。

ネーミングライツ Naming Rights

名称権、命名権などと訳される。スポーツなどの施設の運営・管理費を補うため企業と契約、対価としてその名を冠せる。80年代アメリカで始まったとされる。使用料や入場料を抑えるなど利用者にもメリットがある。国内のハンドボール会場では山口県の「キリンビバレッジ周南総合スポーツセンター」、ヨーロッパの大規模な会場ではケルン(ドイツ)の「ランセス・ケルン・アリーナ」、ストックホルム(スウェーデン)の「エリクソン・グローブ・アリーナ」などが代表的。

7mライン

ゴール正面に引かれたゴールラインと平行に引かれた長さ1mの直線。

7mスロー

明らかな得点のチャンスに、相手選手の妨害(反則)にあって逸した場合に与えられる。7mライン(=前掲)の手前からGKと1対1で行なうスローで、GKはゴールエリア内に引かれたゴールキーパーラインを越えることが許されない。シュートに成功すれば1点。妨害対象は競技に関係していない人(コートにまぎれこんだ動物も?)や相手チーム役員も含まれ、レフェリング(吹笛)への不満行為や言動にも適用される。ペナルティスロー(PT)と呼ばれた時もある。英文の略称、略記は7mT。

7mスローコンテスト

規定の時間内に決着がつかず、勝負を決定しなければならない場合に行なわれる。「7mT合戦」「シュートアウト(shoot out)などと同意。現行では両チーム5人ずつが交互に、定められた片方のゴールで行なう。日本の試合では「3人制」も認められる。なお、同点の場合は決着がつくまで繰り返し1人ずつが行なう。

7mスローキラー

7mスローを阻止するのが上手なGK。それを得意とするGK。

「7人攻撃」用ヴェスト

僅差で劣勢のチームが試合終了時間寸前に仕掛ける全員攻撃の際“7人目のCP”が着用する。ゴールは無人となる。80年代までは、攻撃力のあるGKの参加が多く、フリースローからの強打などで得点も珍しくなかった。90年2月の第12回世界男子選手権(チェコスロバキア=当時)で、スペインがGKの代わりに7人目のCPをコートに送り出し、ほかのCPのユニフォームと異なる色の背番号部分が切り抜かれたヴェスト(vest)を着けていた。これが違法とされず、またたく間に各国が採り入れ、国内では90年5月東京での第3回ジャパンカップ・スウェーデン−日本戦でスウェーデンが初めて見せた。現在は各チーム「特別のヴェスト」を備えて試合に臨むようになっている。

南東ヨーロッパリーグ

「SEHA League」と呼ばれるヨーロッパ南東7ヵ国を中心とした男子クラブの国際リーグ。2010年にクロアチアが各国に呼びかけて準備、11〜12年シーズンに発展した。クラブの財政事情などから加盟チームの入れ替りが激しいが11〜12年12クラブ、12〜13年と13〜14年各10クラブが参加、3シーズン連続は7クラブ。ベラルーシが加盟を検討している。SEは南東の意。

奈良県協会

49年3月設立。奈良師範が国内では珍しく学校体育のウィンタースポーツ(11人制)の教材として導入したのが県球界のさきがけとなり高校へ普及、国内シーズンと同調した。教員、中学など全国レベルの活躍も多い。

ナショナルチーム National team

国や地域の協会(連盟)を代表する最強チーム。その国の国籍を有する者(コーチングスタッフは除く)で編成される。「全日本」「代表チーム」と同意。
ナショナルチームによる試合は「公式国際試合」とされ、出場選手の輝かしいキャリアに数えられる。
年令別のナショナルチーム編成も国際的な常識となっており、日本協会には男子が24才以下、21才以下、19才以下、16才以下、女子の22才以下、20才以下、18才以下、16才以下のカテゴリーがある。

ナショナルチャンピオン(チーム)

その年度(シーズン)の国内チャンピオンチーム。日本では伝統的に全日本総合選手権の勝者を位置づけているが、ほとんどの国は全国リーグの優勝チームを指す。

ナショナルフェデレーション

National Federation。国内を統括するスポーツ団体。日本ハンドボール協会がこれにあたる。NFに同じ。

ナショナルリーグ

その国の最高位リーグ。全国リーグ。ナショナルチャンピオン(=前掲)を決める長期日程のリーグが外国では多い。

ナショナルトレーニングセンター National training Center

08年1月、東京都北区に完成した頂点強化拠点。屋内施設は地上3階、地下1階の競技別トレーニング場で、ハンドボール専用トレーニング施設(2面)は2階にある。09年4月から施設の名称権を「味の素」が得ている。英文の略称、略記はNTC。屋外トレーニング施設、宿泊施設、国立スポーツ科学センターなどが隣接する。

ナショナルトレーニングシステム

00年から日本ハンドボール協会が着手した国内トップレベルの一貫指導システム。national traning systemと名付けられている(略称はNTS)。06年度は国内9ブロックごとに小・中・高校生(男女)の有望選手(総計約800人)を集めて指導、その中から中学生58人、高校生男女62人が07年1月の「センタートレーニング」に推薦された。年代別のトップレベルを強化して、日本代表(男女)の基盤にしようとする企画は、ハンドボール界以外からも期待と注目が集まっている。

NEO

新しい、最近のという意味の接頭語で、日本ハンドボール協会は10年7月、ヒロシマ国際に参加する「若手全日本」のチーム名に冠せた。

寝屋川高校(大阪)−熊本市立高校戦

87年、日本ハンドボール協会が創立50周年を記念し刊行した「日本ハンドボール史」の企画で、半世紀の間のもっとも印象に残る1戦として選ばれた。試合は58年8月の第9回全日本高校選手権女子決勝戦(函館)、6−6で延長となり、第1延長は3−3(9−9)、第2延長は0−0で引き分け。史上初の両校優勝という終始緊迫感あふれた激戦だった。

ネット

ゴールに張られる網。ネットのないゴールは正式なものとされない。ゴールに入ったボールが抜け出たり、はね返ったりせず、そのままゴール内に留まるために張られる。網目は10×10p以下とされ、少なくとも20pごとにゴールポストクロスバーに固定しなければならない。ゴールネットに同じ。

ニュートラル newtral

どちらのホームでもない会場(地域)。「第3地域」ともいう。

NF

ナショナルフェデレーションの英文略称、略記。

NHK杯

71〜73年まで行なわれた男女トップチームによる全日本選抜大会。74年と79年にNHK国際となったあと休会。NHKは日本放送協会。

ナイトゲーム(ナイター)

11人制時代、夜の時間帯に開始される試合。53年6月、西宮球技場(兵庫)での第8回関西学院大学早稲田大学定期戦が史上初。室内時代になってナイトゲーム(夜間日程)は珍しくなくなった。

新潟県協会

49年9月に設立されたが50年代後半、加盟チームの減少などから活動が一時休止された。61年12月改めて新組織が設立され、柏崎市を中心に活気のある展開となった。

20世紀世界最優秀選手

国際ハンドボール連盟が20世紀終幕にあたって各国の代表、有識者、ジャーナリストなどからの投票で
男子、マグナス・ヴィスランダー(スウェーデン)、得票率20.4パーセント。
女子、シナイダ・ツルチーナ(ソ連=当時)、得票率32.9パーセント
を選出、表彰した。
男子の得票率の2位以下はT・ドイシェバエフ(ソ連〜スペイン)、A・ラフロフ(ソ連)、G・グルイア(ルーマニア)、J・リシャーソン(フランス)の順。
女子の得票率2位以下はA・アナセン(デンマーク)、林五卿(韓国)、S・キティッチ(旧ユーゴスラビア)、J・コラール・メルダン(旧ユーゴスラビア〜オーストリア)の順。
男女とも日本選手の得票はなかった。

25パーセントルール

国際ハンドボール連盟が80年から世界選手権規程に導入した同じ勝ち点の場合の順位決定法。得られるべき最高の勝ち点数の25パーセントを基準として、2つのグループに分け順位を決定する。93年の各大会まで採用されたが、撤廃。実力差のあるチームから大量得点をあげ得失点差で上位となる傾向を改めようとしたもので各地学生リーグが着目、廃止、消滅したあとも採用している国内大会が少なくなかった。

2分の1ファイナル

1/2final。勝ち抜き戦などでベストフォアによる2試合を示す。準決勝に同じ。

ニールセン Holger Nielsen(故人)

ホルガー・ニールセン。デンマークの体育学者、スポーツ視学官、1927年〜30年国立体育研究所所長。1900年代に入って学校内のスポーツとして盛んなハンドボールの“組織化”を進め、1906年、世界最初の「ルールブック」を編集、発表した。この業績でデンマークが近代ハンドボール発祥の国とされる。
生命救助の研究でも多くの実績があり、なかでも「ニールセン式人工呼吸法」を発案したことで有名。55年90才で他界。

日韓定期戦

日本・韓国男女代表チームによる定期戦。09年から始まり、毎年両国交互に開催される。
08年1月「北京オリンピック再予選」(東京)をきっかけに両国協会が結んだ。08年5月の男子の交流を経て09年5月に川崎市で第1回が行なわれた。

「ニッポン」

主に北ヨーロッパ諸国で90年代までスカイプレーに付けられていた名称。

日本のハンドボール@〜送球の普及〜

1922年(大正11年)7月24日、東京代々木で開かれた大日本体育学会体育夏期講習会で東京高等師範学校教官・大谷武一によって「ハンドボール」は日本に初めて紹介された。大谷は直前までアメリカ・ヨーロッパの体育スポーツ事情を視察、ドイツでこのスポーツを知った。
そのあと、学校体育の教材として各地に伝えられたが、競技スポーツでの発展は遅れた。28年、国際アマチュアハンドボール連盟が設立された際に、日本陸上競技連盟の名によって加盟、36年ベルリンオリンピックでの採用(男子11人制)と40年東京オリンピック決定で、にわかに関心が高まり38年2月2日日本ハンドボール協会が誕生した。
当時ハンドボールは「送球」と名付けられ組織名も正確には「日本送球協会」である。「送球」の名は48年夏まで続けられる。不幸にも戦火の高まりから東京オリンピックは返上となり、ハンドボールの将来は厳しいものとなったが、在京の学生勢の情熱とドイツの国技であったことが作用して、灯は守り通され、戦中は女子の公式大会が続けられた。

日本のハンドボールA〜7人制時代〜

46年、国民体育大会の競技となり、48年、新学制による全国高校体育連盟が結成され、その正式メンバー(専門部)となった2つが、ハンドボールの発展に大きな力となる。48年7月1日、協会名は「日本ハンドボール協会」と改められた。「送球時代」との決別である。
52年国際ハンドボール連盟への加盟。7人制(室内)の導入、56年西ドイツ男子代表(55年世界11人制選手権優勝国=後掲)来日など活発な動きが続いたが、64年東京オリンピックに参加できなかったのは痛恨事といえた。
57年女子の公式試合を7人制に一本化、63年国内すべての試合を7人制とする画期的な時を迎える。
72年ミュンヘンオリンピックに採用(男子室内)され、宿願の出場をはたし、76年モントリオールオリンピックには男女出場の栄光に輝いた。男子の3大会連続出場となるべきモスクワオリンピック日本オリンピック委員会の決定で不参加となった。国内では72年中学生の全国大会、76年に男女の日本リーグが発足。海外ではアジアの充実が目立つようになり、日本独走にかげりがのぞきはじめる。

日本のハンドボールB〜活況への試練〜

81年3月、日本ハンドボール協会の財団法人化が成り新たな発展期を約束させたが88年ソウルオリンピックを目指す韓国や中国、中東勢の台頭も著しく、国際競争の波にもまれ始める。アジア大会での実施は男子が82年、女子90年。
一方、世界の流れは、コマーシャリズムを加速させ、91年の東西冷戦の終結で、ヨーロッパハンドボール界の様相が激変する。97年、日本ハンドボール協会は、国際ハンドボール界の最高峰・男子世界選手権を熊本へ招致することに成功、驚異的な盛況を呈したが、ハンドボール界の飛躍にはつながらなかった。男子は88年、女子は76年を最後にオリンピックへの道を絶たれたままで過ぎている。さらに高校依存度の高い愛好者人口が少子化で下降線を描き、トップレベルを支えた企業チームの活動縮小も深刻な影を濃くしている。03年6月に打ち出した日本ハンドボール協会構造改革計画「Project21」の結実へハンドボール界の挙国的なエネルギーの集結が強く望まれ、2020年の東京オリンピック開催はこれ以上ない目標となる。

「日本ハンドボール(協会)史」

日本ハンドボール協会事業として編集・刊行される文献。
87年3月日本協会創立50周年事業で「日本ハンドボール史」が、98年3月、「日本ハンドボール協会60周年記念誌」が、13年2月「日本ハンドボール協会75周年記念誌」が、その都度編成される編集委員会によって企画・制作が行なわれている。

日本ハンドボール学会

体育・スポーツ分野でハンドボールの技術、戦術、指導などの理論・研究を志している人たちで構成、2012年5月1日に設立された。03年から10年間にわたった「コーチング研究会」を発展させたもので13年3月、第1回学会を東京・駒澤大学で開いた。第1期(12〜14年)の会長は大西武三、理事長は曾田宏。英文名称はThe Japanese Association of Handball Research。同略称はJAHR。

日本・中国・韓国ジュニア交流

93年から3ヵ国の体育協会の交流協定によって行なわれている男女の総合大会。ハンドボールは第1回から正式競技として加わり、日本代表は原則として全国高校選抜大会などの成績で高校単独チームがつとめている。

日本アンチ(防止)ドーピング機構

01年9月に設立された日本のアンチ・ドーピング活動の中心的な役割を担う機関。日本ハンドボール協会は02年に加盟。日本語の表現では「アンチ」よりも「防止」が主流になりつつある。Japan Anti-Doping Agency。英文略称、略記はJADA。

日本ハンドボール協会

日本のハンドボール活動を代表する唯一の機関。38年2月2日、それまで国際代表権を保有していた日本陸上競技連盟から一切の権利を譲渡され誕生した。当時の名称は日本送球協会。以降の発展は前掲の日本のハンドボール@〜Bを参照。日本体育協会には38年5月31日加盟(日本オリンピック委員会加盟も同日付)。国際ハンドボール連盟に52年1月10日(組織決定は同年9月20日の同連盟総会)正式加盟。財団法人格取得は81年3月11日、2013年4月1日、公益財団法人へ移行。42年、国内スポーツ組織の統合で協会を解消し45年までは「大日本体育会ハンドボール〜送球〜部会」を名乗った。日本送球協会を日本ハンドボール協会に改称したのは48年7月1日。2013、14年度の会長は渡邊佳英、専務理事は川上憲太。正式登録チーム数4808、同人数10万5976人(2014年1月10日現在)。Japan Handball Association。英文略称、略記はJHA。

日本ハンドボール協会ホームページ

97年11月からインターネットのウェブサイトに開設(掲示)された日本ハンドボール協会の「ウェブサイト」。アドレスはhttp://www.handball.jp/
パソコン通信によるハンドボール愛好者の「ホームパーティー」は95年ごろから盛んとなり、球界の関心と取り組みは早かった。試合記録の電算化(データのコンピューター処理)は91年の広島アジアハンドボール選手権で初試用されている。

日本協会機関誌

日本ハンドボール協会広報事業の1つで60年6月に創刊、09年5月に500号に達した。年間9回の発行(09年度)。誌名は「ハンドボール」。52年3月から1度「会報」が発行されたが、54年10月、通算8号までで休刊した。

日本車椅子ハンドボール連盟

03年4月に発足。05年2月日本ハンドボール協会加盟団体となる。03年から「日本車椅子ハンドボール競技大会」を主催。

日本ハンドボールリーグ

76年秋に男女各8チームで発足。各ボールゲームの日本リーグに触発され6番目の結成。男子に続いて女子もオリンピック競技に定着、頂点強化が日本ハンドボール協会の最大事業となった背景が大きい。発足にあたっては有力実業団を“横滑り”させるのではなく、大学・クラブ勢を含めた国内の有力チーム男子25、女子18チームを候補(有資格)チームにノミネート、参加の意思を問う方法が採られた。その結果、男子10、女子9チームが名乗りをあげ、男子は3、女子は2チームによって「選抜試合」を行なうことになり関心の高さを物語った。
男子は2年目の77年から、女子も79年から2部制を導入するなど順調な歩みを見せたが、加盟チームの出入りは激しく、第1回メンバーで07年の第32回に名を連ねているのは男子が大同特殊鋼、湧永薬品(現・湧永製薬)、本田技研鈴鹿(現・ホンダ)、大崎電気の4チーム、女子は立石電機(現・オムロン)1チームを残すだけ。13年9月スタートの第38回は男子9クラブ、女子は飛騨高山ブラックブルズ岐阜の加入で7クラブが参加している。優勝は男女ともプレーオフで決める。第35回(2010-11々シーズン)は東日本大震災発生でプレーオフは行なわれなかった。優勝チームには12-13年シーズンから100万円の賞金が贈られている。
競技面ではヨーロッパのトップクラスの選手や韓国人メダリストの加入などで、国内球界を大いに刺激した。英文の略称、略記の「JHL」をそのまま通称とする。

日本ハンドボールリーグ機構

98年4月発足。加盟各チーム個々の運営とともにリーグとしての組織的な活動を強化するため、従来の日本ハンドボールリーグ運営委員会を発展させたもの。実業団チームの相次ぐ撤退で、リーグ構造の新しい視点と事業性の拡充が急務とし、09年秋から「チャレンジディビジョン」を発足させた。

日本・韓国交流

09年5月、男女代表チームによる定期交流戦が発足、新たな時代の幕を開けた。
歴史は古く、61年10月日本体育大学の韓国遠征でで始まり、62、63年高校男子、70年社会人男子、71年同女子が定期的に代表チームを派遣しあった。学生交流は63年のあと69年に復活して、そのあとは毎年、女子も71年に発足。いずれも開催地は交互で行なわれたが、しだいに単独チームの往来が主流となった。
高校は68年から76年まで(女子は73年から)の9年間、両国体育協会の交流事業となり、日本での受け入れはその年の全日本高校ハンドボール選手権優勝校と開催地代表校とされた。
77年韓国内での政治事件で休会となり、77年からは体育協会の手を離れ、両国ハンドボール協会交流へ戻った。82年からは「日韓ジュニア交流」と四たび方式が変わり、93年からの「日本・中国・韓国ジュニア交流」へと発展した。99年からは中学生世代を原則とした「日韓交流」が日本オリンピック委員会、日本体育協会事業として発足、ハンドボールも参加している。終会した高校は通算で男子が26回60戦11勝4分45敗、女子が19回38戦6勝1分31敗と日本側の劣勢で終わっている。
社会人男女、学生男女は90年代後半に休会のまま再開の見通しが立っていないが、08年の準備大会のあと09年に男女代表による定期戦が組まれ、09年には小学生の交歓が始まった。

日本オリンピック委員会

正式に組織として位置づけられたのは52年12月22日。国際オリンピック委員会のメンバーとしての国内オリンピック委員会を名実ともに発揮し得ることになった。設立の動きは46年12月に始まっている。
“前史”は1911年(明治44年)、オリンピック参加への母体として設立された大日本体育協会に始まる。そのあとは同協会の流れを汲んだ日本体育協会の加盟団体として活動していたが91年3月分離、4月独立、特定公益増進法人となり、2011年から公益財団法人。Japanese Olympic Committee。英文略称、略記はJOC。

日本スポーツ賞

51年から読売新聞社が年間の最も国際レベルで高い評価を得た日本のチームまたは選手に贈る賞。各スポーツ団体別推せんの賞が設けられているのも特色でハンドボールは13年(63回)までに日本男子代表が7回、同女子と同ユース女子が各1回のほか、チーム43回、個人10回、県協会1回が受けている。

日本スポーツ仲裁機構

03年4月7日設立。アスリートの権利とスポーツ界の透明性を高めるための機関。試合の判定などは仲裁の対象にならない。国際的なスポーツ仲裁裁判所は84年ローザンヌ(スイス)に設立されている。Japan Sports Arbitration on Agency。英文の略称、略記はJSAA。

日本体育大学

国内を代表する伝統と実績を誇る名門。37年日本体育会体操学校時代にチームを設け、41年から日本体育専門学校、49年から日本体育大学となった。40年代から女子も活動している。つねに国内最上位に加わる実力とともに、教職畑に就いた卒業生が普及と指導に示した力と情熱は日本ハンドボール界の支柱の1つ、47都道府県協会の運営に欠かせぬ人材となった。
国内初の公式大会、37年10月の関東選手権優勝を門出に戦前は全日本選手権2回を制し、戦後、学生界では全日本学生選手権で男子19回、女子17回、関東学生リーグ(戦前の東京学生リーグを含む)で男子43回、女子49回の優勝を飾っている(08年春季まで)。男子は全日本(東西)学生王座決定戦も1回握った。61年の韓国単独遠征の成功は「日韓交流」の扉を開いたものとして特筆される。女子は61年から72年まで対学生チーム89連勝という快記録をマークした。

日本体育協会

1911年7月、ストックホルム・オリンピック(12年)参加のためその派遣母体として大日本体育協会が設立され、25年総合スポーツ団体としての活動を軌道に乗せた。42年大日本体育会の名称で新発足、48年11月13日日本体育協会と改称、今日に至っている。07年4月現在、47都道府県体育協会のほか加盟している中央競技団体は日本ハンドボール協会(38年5月加盟)など55(ほかに準加盟3)。国民体育大会の主催者の1つ。通称「日体協」。英語表記はJapan Sports Association。同略称、略記はJASS。

日本トップリーグ連携機構

国内各ボールゲーム(球技)の全国リーグが連合して交流と情報の交換、共通事業の開発などを目的に05年5月24日設立された。ボールゲームの国際活動の低迷や企業チームの撤退などが引き金になっている。2014年2月現在の加盟は日本ハンドボールリーグなど9競技12リーグ。英文略称はJTL。

日本ユニバーシアード委員会

57年日本オリンピック委員会の内部委員会として発足した大学スポーツ団体の連絡機関。ハンドボール界は全日本学生ハンドボール連盟の代表が参加している。Japanese University Sports Board、英文の略称、略記はJUSB。

「日体系」チーム

日本体育大学の現役とOB、またはOBによる国内最高レベルを誇った男子チーム。40年東京で発足した朝日クラブが最初といわれる。第2次大戦後は実業団が台頭するまで多くの全日本制覇を記録している。
・全日体大…全日本総合選手権優勝5回
・日体「桜」、スワロー「松」、東京スワロークラブ、西日本日体OB…全日本総合選手権優勝各1回。ほかに戦前の全日本選手権優勝の日体クラブ。

日本ワールドゲームズ協会

ワールドゲームズ参加競技の国内団体による組織。85年委員会として発足し、91年に協会へと発展。日本ハンドボール協会はビーチ競技が01年の大会(秋田)から加わったことで00年にメンバーとなった。ワールドゲームズにおけるビーチの扱いは、09年まではデモンストレーション(招待)競技、2013年から正式競技入りを果たした。

西アジア競技大会

中東諸国による3〜5年おきに10〜15ヵ国が参加して開かれる国際総合競技大会。97年の第1回(イラン)は個人競技中心の15競技で行なわれたが、第2回(02年、クウェート)からハンドボール(男子)が加わり、第3回(05年、カタール)と続いたが、そのあと休会を続けている。ハンドボールは各国の対抗意識がぶつかり合う熱狂的な雰囲気となる。

「西ドイツ」

正式国名はドイツ連邦共和国。第2次大戦後ドイツは「東」「西」に分割され両国ともにハンドボールを「国技」として受け継ぎ拡充につとめた。70年に創立されたスポーツ協議会が市民スポーツ、競技スポーツの両面の振興策を促進し、その中核となったのがクラブ。各クラブでハンドボールはサッカーに次ぐメインとなり、活況を呈した。77年からアマチュアカラーを薄めた全国リーグ(ブンデスリーガ)を本格的に組織、11人制衰退後、いささか低迷していた「見るスポーツとしてのハンドボール」の復活に力を入れた。90年10月3日ドイツ民主共和国(「東ドイツ」)との統一と、各クラブの積極的な国外有力選手の招へいで、全国リーグは「ワールドリーグ」の異名をとるまでに発展、市場化路線も順調とされる。「西ドイツ」としての世界選手権優勝は男子7人制が1回、同11人制が3回。
56年(11人制)、79、87年(7人制)に男子代表が来日している。67年来日の女子は「選抜」チーム。英文の略称、略記はF.R.Gとされていた。

「西ドイツ」来日シリーズ

日本のハンドボールに大きな影響を与え、興奮を呼んだシリーズ。56年9月16〜30日、前年の第4回世界男子11人制選手権優勝国として来日、全日本と2試合のほか、国内各地で8試合を行なった。ハンドボールの祖国からの使者、そして世界チャンピオン。長身者を揃えたスケール大きい攻撃、シングルハンドでのボール操作、全員の走力、強肩、すべてが国内愛好者の目を見はらせた。型にはめこまれた日本のトレーニングと異なり、各選手が思い思いに、のびのびと動く姿も新鮮だった。
特筆すべきは、全8戦にのべ16万人の観衆が詰めかけたことで、日本ハンドボール界の前途に自信を抱かす事業となった。だが、この時すでに国際的な流れは「室内(7人制)」へ大きく傾いており、西ドイツの魅力が、以降の発展に寄与することは限られてしまった。

西山 逸成(にしやま・いっせい)

05年1月から09年5月まで国際ハンドボール連盟(IHF)医事委員会委員をつとめた。日本人のIHF専門委員会委員は初。54年日本体育大学卒業後、運動生理学を専攻、ドーピング問題を始め、ハンドボール界を代表する医科畑のエキスパート。1996年アジアハンドボール連盟医事委員を経て04年から09年5月まで同委員長。31年6月山口生まれ

西山 清(にしやま・きよし)

80年12月〜81年1月フランスで行なわれた第8回世界学生選手権の得点王に輝いた国際レベルのアタッカー。強肩と手首の強さ、中学生時代の体操競技で身につけたジャンプ力と空中バランスなどを活かした攻撃力は氷見高校(富山)−筑波大学時代から注目を浴び、79年第2回世界ジュニア選手権代表を得て全日本入り、84年ロサンゼルス、88年ソウル両オリンピック代表などで活躍。日新製鋼(広島)に加わって日本リーグ得点王3回をマークしている。59年4月富山生まれ。

野田 清(のだ・きよし)

日本ハンドボール史上に記憶されるべき大選手。立教大学時代、国際レベルでの活躍を目指して、身体能力の高さを活かした無角度に近いサイドからの独特のプロンジュンシュートを考案、内外から絶賛を浴び、ヨーロッパでは「ノダ・シュート」と名付けられ、日本ではマスコミから「むささびシュート」の異名を得て、ハンドボールの知名度を飛躍的に上げた。大同製鋼(愛知、現・大同特殊鋼)入り後、いちだんと鋭さが加わり日本の切り札的存在となる。72年ミュンヘンオリンピック代表。そのあと、ソウルオリンピック代表監督、日本ハンドボール協会強化部長などを歴任。46年4月愛知生まれ。

NOCs

国内オリンピック委員会のこと。日本オリンピック委員会がこれにあたる。

ノンコンタクトプレーヤー

国際ハンドボール連盟の選手参加資格カテゴリーの1つ。非契約選手に同じ。トップゾーンでのいわゆる「アマチュア競技者」を指す(注・契約選手は即プロフェッショナルではない)。

ノーマーク

@攻撃者に対し防御側の選手がいない状態
A戦力を評価、警戒されていないチーム。そのようなチームが勝ち進んでいる場合に多く用いられる。

ノーマークシュート

ノーマーク(=前掲)から放たれる、または放たれたシュート。和製英語。

ノーシード

シードの扱いを受けていないチーム。和製英語。

ノルウェー Norway

世界女子界をリードする国。オリンピックでは北京・ロンドンと連覇、このほか銀メダル2回、銅メダル1回。世界女子選手権は1999年、2011年に優勝、2位と3位各3回。ヨーロッパ女子選手権は04年から10年まで4連覇(通算5回)を飾った。2012年資料では国内愛好者11万2000人の65パーセントが女性という。
球史は1920年代前半ドイツ人によって男子11人制が紹介され、女子は30年代から7人制(室内)によって普及した。第2次世界大戦後、国際ハンドボール連盟(IHF)の設立メンバー国となり、その後の発展に貢献した。女子の躍進はデンマークスウェーデンに刺激され、94年から監督となった元女子代表マリット・ブレイビクの好指導によるところが大きい。これまで奈良伊久子、山田永子、内林絵美、上町史織ら日本人女子選手がノルウェーリーグのコートに立っている。

ノースペクテーターズゲーム

有料、無料を問わず観客を入場させないで行なう試合。ドアークローズドゲーム密室試合に同じ。

ノーステップ

ボールをキャッチして(受けて)からステップしないで次のプレーを行なうこと。

ノーステップシュート

ボールを得た選手がステップしない(足を運ばない)で、そのまま放つシュート対比はステップシュート

ノータイム

規定された競技時間の終了、あるいはほとんどゼロに等しい状況。競技終了の合図と同時に行なわれた違法、反則はルールにしたがって適用される。

ノータイムスロー

フリースロー7mスローを得ているチームは競技終了が合図されたあとも行なう権利がある。フリースローは1人だけの選手によって行なわれる(ほかの選手にパス、ピッチされた時点で終了)。

N.P.O法人

利益の分配をしない「非営利組織」「同団体」のことで、認可されれば資金ゼロで法人を設立できる。活動の範囲は「スポーツ振興」など特定非営利活動促進法で定められた17の分野に限られる。スポーツ系の団体は13年10月まで全国で5000を越すとされるがハンドボール関係では「広島メイプルレッズ」が代表的。N.P.OはNon Profit Organizationの略称、略記。

NTC

ナショナルトレーニングセンター(東京都北区)の英文略称、略記。09年4月から「味の素」が施設の名称スポンサーになっている。

ニュボー、ニュボア Nyborg

1897年世界で初めて近代ハンドボールが行なわれた場所。デンマーク中南部フュン島東端の港湾都市。国際ハンドボール連盟も「この年と場所」を認知、1997年8月「ハンドボール発祥100周年記念試合」(男子・世界選抜−デンマーク代表)を同市に近いオーデンセで行なっている。デンマークでは1848年オストラップですでに学校スポーツとして「ハンドボールゲーム」の名による競技が行なわれていることも、同連盟は紹介している。